経済・政治・国際

景気の話をしよう

景気のいい話をしよう。景気のいい話をして楽しもう。

景気のいい話をして金儲けの夢を見よう。景気のいい話をみんなでしよう。

大勢集まって、景気のいいところを見せよう。景気のいいところへ行って、景気のいい話をしよう。

どこがそんなに景気がよくないのか議論しよう。景気づけにいっぱい飲んで話をしよう。

景気のいい話をしよう。ちょっと時間をおいてからのことだが・・・。

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凸凹の軌跡について

破壊と創造。戦争と平和。好景気と不況。

凸凹しているこの世界がある。それが当然のような気がする。同じことを続けようとするのは守勢に立つことでしかない。ということは、変化を求めていることだ。でも急激な変化も嫌だ。そう考えている。

そこで私たちの意図にかかわらず、凸凹がくる。どっちがどっちでもない。変化している。その変化を先取りして予言とか予想とか、いろいろな分析、科学的手法、感覚的な手法などを駆使して世の中をリードしようというもくろみもある。いっぱい溢れている。

一番良いのはなんだろうか。景気でいえば良いのがほんとにいいのかは疑問だ。すべてが悪いのかといえばそうではない。ほんとはよくないのだが、戦争の時でも景気のいい産業や地域はある。でも、続かない。

平和な時にはなにがいいのか。戦争がないという良さだろう。

でも軍事産業にとっては、それは悲劇でしかない。兵器の開発なんてお金がいっぱいかかるのだ。そうして開発していかないとすぐに先端技術で陳腐化して使い物にならない。使わなければいいのだ。でも、そう簡単ではない。

需要を創る。そして応える。それがすべてだ。どんなことでも、ニーズがなければやらない。戦争なんてだれもやりたくはない。知人友人親戚子供たち親たち。みんな犠牲になるかもしれない。

なぜ、そうするのか。そうまでして需要をつくるのか。不測の事態に備えるためだ。そうしないと知らないうちにせん滅させられる。きれいごとを言っている間にもういなくなる。だれもいなくなる。国もなくなる。

そんなことを想えば、だれもが不測の事態に備えることに異論を挟まなくなる。挟むことができなくなる。それでも少数の人たちは反対する。どうしても嫌だという人たちもいる。この世は多数決の時代だから、無視か放置か、またはせいぜい少数意見の尊重という形になる。でも実現はできない。

立ち上がる。打倒しなければそこに勝ち目はない。再び争いが起こる。

負け組が勝とうとする。当然だ。勝てば官軍なのだ。でもいつも負け組はいる。単なるシーソーごっこでしかない。もっといい解決方法はないのか。

実はない。

だから、強制的に不可逆的に瞬時にリスクマネジメントの不手際をついて、出現するのが凸であり凹である。

成長と停滞。そんなものもある。後退という成長もある。そんなときに何か大切なものが変革しているようだ。不況時には成長しない経済がある。そういう状況は周囲にあるものに注目する。まだ使えるという感覚だ。

でも、この社会の環境は破壊されている。みんな利用している車社会だからだ。CO2がこの地球を壊し始めているのだ。いくら壊れた部分を直そうとしても、もう手遅れだ。ヒトがいなくなる。車も必要なくなる。そして消える。

そこからあたかも新芽のように芽生えるものがある。凸凹とそんな感覚だろう。いつもどうやってもこの社会、この世の中は変化し続けているのだ。どうする。自然にまかせてその動きを研究しようではないか。

波乗りでもいい。サーフィン流思考法なんていうのだろうか。でもみんな実際の波は異なる。こっちの波に乗れても、あっちの波は難しい。いろいろだ。

こんな風に変わったらうれしいな・・・。そんなことがいっぱいある。でも、そんなことはだれも思いもしない。できないと信じ切っているのだ。なぜだろう。

わからない。凸凹の軌跡は私たちの目には実は見えないのだ。何者かがそれを凸であれば削り取り、凹であれば埋め合わせているのだ。だれだろうか。悪者と正義の味方。これも同じだ。どの程度の悪がどの程度の正義の味方なのだろうか。同じ物差しの上にいるのだと私は考えている。

でも、同じことが、その時々の見方、評価で変化する。まあ当然だろうが・・・、そうなのだ。でも決してうまくやろうなんて想うな。それは、単なる視点の違いだけなのだ。大した差はない。

生きている限り、そこに変革はついている。普通に歩いたり、走ったりしていても、いしころに躓いたり、下駄が脱げたりする。転んだりもする。それでも河原の石の上を飛び歩いてみるのは面白い。長くは続かないが、結構ゲームのようで楽しい。

私たちの社会の凸凹も同じだ。私たち一人一人がそういう凸凹の軌跡をもっているのだし、みんながこの社会の凸凹の一つなのだと私は考えている。

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活用ソフトの時代

モノを創る仕事は楽しいものだ。だから、どんなことがあってもやっていけるのだ。

モノづくりは夢中になる。だから、つい忘れる。寝食の大事なことを忘れる。

そんなモノづくりの世界で、くびを切られたら、どこへも行き場はない。当たり前の話だ。

結局、日本からモノ作りに夢を託す若者はいなくなってしまうのだ。

それでは、困る。モノは生きていく上で必要なものだ。だから、そんなモノづくりに精を出す若者をはぐくむ社会環境が大切になる。

そうすれば、いろいろな新しくて便利で気が利いて私たちの役に立つ製品が出来上がるのだ。

いまある資源を活用する時代がこれからの日本の発展のカギなのだと、私は考えている。そこから活用ソフトの時代が、いまから、そういう有効活用の時代が、ソフトの時代が始まる。

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なにをするか、なにができるか、なにをしたいのか・・・

毎年、とにかく何をするかを考える。そして、俺は何ができるか、何もやりたいことに関してはできないと悲観する。

なぜそうなのか。無理やりやることはない。すべて物事には準備が必要だ。やりたいことがあったら、そんな1年や2年でできることなんて知れている。でも、その1年、2年がだいじなのだ。準備するということは、そこにはっきりした成果としてみることのできるものではないのはたしかだ。

ときに、いつも、進展するよりは後退してしまうという挫折感が先に心の中に侵入してくる。やったって結局、意味ないんだよな・・・。あきらめなよ・・・。そんな空気が私の心を支配する。そんな日々は年初めだけではない。ほぼ毎日、襲ってくる。

そんな襲撃があると尻込みするのではなく、なんとなくうれしい気持ちになる。おお、そうか。俺をおれ自身がそんな風にみているのだ。やってやろうじゃないか。だれにも迷惑をかけるわけではない。おれ自身が俺本人を挑発しているのだ。

でも、だめなものはだめなんだ。みてみろ・・・。毎日の暮らしのリズムをみてくれ・・・。朝、ヒル、晩。何もできないだろう。

そうだな・・・。それでわかった。

ほんとは何もやりたいことなんてないのだ。日々、疲れたといって、酒を飲み、酒に飲まれて翌日に進むことしかできない。そんなのは、みんな一緒だ。だれも何かに支えられて生きている。生活している。どんなに時間があっても、そこに言い訳があれば、みんなそれに飛びつくのだ。

おれのせいではない。おれの中の他の俺のせいだとまではいわなくとも、いいわけをして気分が楽になる。みんな同じだ。でも・・・・。

でも・・・、ある日変わった。出来なかったことができた。そんなバカなことがあるわけはない。ありえない話だ。でも、現実はそのものだ。

何かの間違いかもしれない。あまり期待しないようにしよう。そして、それは本当だった。いろんなことを自分の心の中で考えることが大切なのだ。そんなことができるのは人間だけだ。そんな己を認識することのできる境遇に生まれたことに感謝していきるのがうれしいのだ。

だから、ひとはどんな辛酸をなめても、それは試練だとか、力不足、努力が足りなかったなどといえるのだ。

もっとほかの言い訳もあるのに・・・だ。

この世界は、みんな同じだ。日々生きることと、その中で自分を認識して、自分で考えることだ。そこから、できれば、己の考えを世界に向けて発信していくことだ。それは、普通のことであったほうがいい。当り前の、普段の私たち誰もが考えているようなことが大切なのだ。そう私は考えている。

世の中で一番、大事なことは、なんだろうか。親を敬い、尊び、そして妻を思い、子を愛することだ。それは、周囲の人々に感謝し、大切にすることだ。

世界は一つである。ひとつひとつのそんな行いや思いが世界を普通のものにするのだ。みんな同じなのだ。基本は同じなのだ。その上で、スポーツとか格闘技とかその他いろいろな力を使って競うのは、もう一つの世界だ。

でも、私たちがほっとするのは家族の笑顔であり、ひとの笑みではないか。そこに何か人類の神秘というものがあると私は考えている・・・・のだ。

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年の初めに・・・

今年はきっといい年になる。今年もきっといい年になる。今年もきっとまたいい年になる。今年は絶対にいい年になる。

そんな気がする。

なぜならば、この正月の空は澄んでいてその象徴のようにみえるからだ。こころの中に世界があり、政治もある。みんなのこころの中にある国際的な連関が大事だ。それは、すべて私たちのこころの中にある。

ひとりのがんばりがこの世界を変える。そこに望みをもっていればのはなしだ。そして私たちはだれでもそういうこころの中に望みをもっている。いっぱい持っている。政治家があきらめようともこの社会の私たちはそんなことはない。

われわれの子孫のために絶対にのぞみをもってあきらめないのだ。

それが一般庶民というものだ。それが国民である。それが今をいきる私たちの姿勢だ。

年の初めにあらためて考えれば、なんら問題はないのだ。どんな不況があってもそれはひとつの試練でしかない。のぞみはいつも私たちのこころの中にあるのだ。

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緊急相談会

地方の中小企業は大変な年末を迎えている。各地の商工会議所や関連機関では、年末ぎりぎりまで相談会が行われている。たしかに年を越すのは、昔も今も大変なことなのだ。

経済の単位は年度ではなく年末ごとにあるようだ。とくに日本の冬は寒い。だから、この年末にあたたかい気持ちで越せるかどうかがきわめて大きな影響をもつのだと私は考えている。

そして、最近感じることは、日本の行政機関の窓口業務がサービス精神に富んできたことだ。ちょっと想像できないようなこの数十年来の変化ではないだろうか。

ぶっきらぼうな公僕という印象が、社会に奉仕するという精神が沁みとおってきているのではないだろうか。何がこの変化を私たちにあたえているのだろうか。

それは、昔から言われているあなたの立場に立つという常識が理解され始めているのではないのか。私はそう考えている。

私の住む東海地区でも商工会議所が緊急相談会を催して29日、30日と対応したようだ。同じビルの中にある私の事務所は、その間、混雑回避のため、閉鎖した。私も家で過ごした。そして、今年最後の今日、31日にこうしてメールなどの確認にきている。

きっと日本の社会は中小企業が立て直すと私は信じている。そのための、力は大きい。雇用の7割を占めて、企業数では98%という数値を無視できないはずだ。どんな恐慌がきても揺るがないスキームがそこにあるはずだ。

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この国はどこはいくのか

この国はどこへ行くのだろうか。10年前の勢いはもうない。それは国民の代表である首相の姿にあらわれている。

どこの国でもその国の顔は政治リーダである。もっともっと日本は世界のトップクラスの国ではなかったのか。日本人の生産性は先進国の中で最低に落ちている。なぜだろうか。いわゆる自分のふんどしを持たないからではないか。

他人のふんどしどころか、さるまた程度を借りているくらいにしか思われていないのではないか。独裁国家に負けるようなイメージでしかない。虐めれっこにしか見えない。虐められて片隅で泣いているならまだいい。もう泣く元気もないのではないか。

それどころか、弱虫を隠し続けるために意地を張っているとしか見えない。自分のふんどしで相撲を取ろうではないか。日本という伝統を私たちは今、この手で取り戻すのだ。だれにもどこの国にも迷惑はかけないでできるのだ。

私たちは日本の良いところをしっている。それは時々誤解される。そして針小棒大にものごとをごまかす。対外的なスタンスと内的なものがまったく違う。

日本の首相は世界一だ。そう私は冒頭の言葉にかかわらずそう信じている。どんな時でも日本一は世界一なのだ。だから、もっともっと日本の良さを世界に示して行こうではないか。

そのリーダは日本の首相だ。へこたれない総理がいて、それを批判する先生たちがいて、そして批判する国民がいっぱいいる。そしてみんながそういう総理首相の理解者でもある。批判や非難はそんなものがこの国を活発にするエネルギーなのだ。不満がたまればそれはパワーになる。

団塊の世代でなくとも、いろんなグループがあつまれば、それは大きなパワーに生まれ変わる。ひとりひとりはそんな感覚がなくとも国民の中に大きなこころのエネルギーが芽生えるときがある。だまっていても、日本にはそんな国民の力がある。

あとはそのリーダが役割をしっかりと果たすことだ。みんなが支援する。そんなものはいらないというようなリーダであればそれは別の話であるがそんなことはないだろう。だってみんなが全国民が支援しているのだから・・・・。

この国は世界のリーダになるのだ。そしてきっといい世界を創造することができると私は信じている。

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海上自衛隊の派遣

海賊はカリブではなかったのか。そんな冗談が飛び出す状況にはない。まともな仕事がなけrば、違法行為に走るしかないという地域の事情があるようだ。

インドネシア海域も同じだ。海の民は魚をとるか、貨物船にのるか、それとも違法行為に走るかしかないのではないか。

昔の瀬戸内海を想像すると事情がわかりそうな気がする。昔の箱根峠を考えてみるとわかりそうな気がする。

その土地にとって、糧となる資源がないなら、それは略奪という違法行為に結びつく背景が見える。

それとも政治的なつながりでのテロ行為そのものなら、話は別だ。

ソマリア沖の海賊は取り締まる必要があるだろう。日本のライフラインである石油の供給ルートにある。安全を確保することが当然だろう。それは自衛以外の何物でもない。すべて衛星で監視されているのだが、実際にその場にいなければできないことがいっぱいある。

原因はアフリカの貧困にある。表面にでているものは、そこで防御することだ。そして、もともとの原因の除去に協力していくことだ。

そのためには、実情をよく把握していくことだ。自衛隊の艦船の派遣は、重要なことだと私は考える。

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ひとものかね

ひとはモノを必要としている。モノを買うにはお金がいる。お金はヒトが持っている。

では商いとはなんだ。ひとにモノを売ることだろう。そして対価をえることだろう。ヒトはなぜお金を払う。

欲しいからだろう。ついうっかりだろうか。生きていくために必要なものは必ずお金を出す。なぜなら命が第一だからだ。

不要なものには出さない。でも時には誤って買うヒトもいる。

そんな風に回っている。できるだけ多く回ってきて、当社の金庫にとどまるようにお金を教育してはどうか。居心地のいい金庫を持つことにしようか。

でもそこに置いておくだけではそのままだ。ひとをおかねに結びつけることだ。ひとはものを呼びこみそこで対価を稼ぐ。ひとは対価をもらう。相手の欲しいものを与えて手にする。

ひとものかねのまわり方をもっとしることだ。お金が避ける道にはひとはいない。ものがないところにはヒトはあつまらない。ヒトはお金についてくるし、おかねはヒトが運んでくる。

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税金のこと

売上はいくらか。利益はいくらか。経費節減はうまくいっているのか。昨年との比較はどうなのか。今年と来年の計画はどうあるべきか。

常に経費節減、削減、経費ゼロなんていうこともありうるか。その時は利益ゼロのときだ。

税金を払い、ヒトを雇用していく。それが企業の使命だという。よくわかる。

そして、そのために法人にお金を運ぶのだ。活かしておかないと税金は納めないから、それは生きていなくてはいけない。ほとんどが中小企業だ。

大手企業は、雇用で貢献だろうか。そうでもない。全体の3割程度だという。

それなら、中小企業が税金を納められる経営体質にならないとこの国は持たないだろう。税金を納めるには、やはりヒトモノカネの3つが命だ。

不況でも活かさないと、税金はない。税収がなければ行政は活動できない。経済破たんだ・・・、と騒ぐことになる。財政破綻だと大騒ぎになる。

ギリギリという音が聞こえてきそうだ。そして、そこから何かできるのかというとそうでもない。一度陥った落とし穴を脱出するには、穴を埋めるしかない。税金は出てこない。

では、どこから取るか。搾取といってもいいだろう。どこから搾るか・・・。どこにでもあるのはヒトの生活だ。企業組織は法人としてお金を食す。不況では体力が続かない。もっと食わせろという。

どこから出す。どこからねん出する。カットだ。自然人の放出だ。人件費を浮かして法人にお金を腹いっぱい食わせることでしかない。

でも彼ら法人はそのお金を自分では集められない。ヒトが貢ことになる。それで生きている。自然人は食事が必要だ。そこから生活に必要なものに税金をかければいいという発想だ。

中小企業の重要性は、企業からの税金と、そこで働く人たちの税金もある。そして生活の税金もある。日本の98%は中小企業だ。70%はそこから給与を得ている。

ということは、そこを元気にしてやればいいのだ。とすれば生活品も流れる。税収は増える。ひとびとの気持ちも上向くというものだろう。

でもどこかしわ寄せがきている・・・。破れそうだ・・・・。気づかない・・・・。千年に一回の経済崩壊が来ていることをだれも気づいていないのではないか・・・。それは百年に一回ではないのだ。

それは壊滅だ。税金収入はもちろんない。そんなときこの社会はどうなるのか。

なくなりはしない。それは人々がいるのだから。経済崩壊はそういう仕組みを否定する。新たな仕組みを構築する時だ。お金というものがなくなる。貨幣経済がなくなれば税金もない。

国家はどこから活動エネルギーをとるのか。いや活動しないから不要だ。でも統制が効かないだろう。それもない。だから要らない。

新たな時代なのだ。だれも何もしない。無の世界だ。する必要はない。ヒトは動かないものとなる。

競技。スポーツ。そんなものは昔話にもならない。遠い忘れた昔々のことだ。税金なんてそんなものはもうだれもしらない存在になっているのだ。

そんな新しい仕組みができることを望みたい。そのためにはみんながそう願うことだ。そして実現に向けて努力することだ。

でも今はだれもそんなことは不可能だと勘違いしている・・・。

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造反議員とは・・・

世の中は、常に裏切りの連続だという。政治は一寸先は闇といわれているのに、結構明解だ。なぜそんなに主張したがるのか。

同じ党内ではないのか。それとももともと関係ない単なる集団なのか。

ボクシングのように実力がそのまま出るわけではないらしい。生まれとか、経歴とか、貴賎なんていうのは関係ないのだが実はまだ日本にはあるのだ。

アラブの主従関係ではないが、使用する側とされる側はまったく立場が異なる。日本もかつてはそうだったのだ。封建制度が一番似合う国だったのだ。

虐げられた貧民がいて、裕福なヒトがいて、そこには大きな格差があったのだ。もうそれは垣根があって乗り越えられないものだったのだ。

でも、今はだれでも同じ命をもっていることが明白だ。みんな同じ命だ。そして同じ権利を持っている。でもそれでも違うのだという。どこかに血筋の差があるのだという。

そんな馬鹿なといいたい。もっとその中で主張すべきところは突き出していけばいいのにできないのだ。困ったときは支援する。毛色の似ているグループを支援する。友を支援する。仲間を支援し協力していく。そんなことはもうとっくの昔になくなっているのかもしれない。

造反議員とは、だれなのか。名前もあったが、たぶんにそれは表向きであり、だれかのためにそうしているのだ。なんとやくざ稼業の精神は結局脈々と受け継がれているようだ。戦いのために犠牲になる。そんな構図にしか私には見えない。

それともまったくの茶番劇ということもある。マッチポンプなんて古い言葉がときどき頭の中を走る。まだ消えていない・・・とはいってはいないようだが・・・。

すべて駆け引きの一つだろう。もっとチャンピオンになるプロフェッショナルなら、もっと正々堂々と戦ってほしいと私は心から想う。

YKKのKさんの二の舞にならないようにもちろんシミュレーションを忘れてはいないだろうが。もっと仲間を信頼できないのだろうか。それとも仲間なんて政治の世界にはいないのだろうか。お酒飲みの仲間を除いてはいないかもしれない・・・。

どうも目線が政治家になると変わるようだ。それは仕方のないことだろうか。でも衣食住に頼る日々の生活は変わりない人間の範疇だとは思うのだが、ちがうのか・・・。

どこがちがうのか。そんな政治家はえせ政治家でしかない。造反は日本人の心根からすると、歓迎されない。今はちがうのか・・・・。いや、私はそうではない。日本人のこころには弱者を支援したいという流れがみゃくみゃくとある・・・。そう私は信じている。

チェンジとは、変えることではない。より本質に近い所に戻るということだ。贅沢な生活を質素な人間らしいものに戻すことなのだ。ほかに何があろうか。

チェンジ。それは、日本の政治家が誤った理解と認識をしている証拠ではないか。だれも何も変えようとはしていない。米国の主張は変わらない。自分の国益にあった方針に時勢にあった政策決定をするという意味なのだ。

ひとの生活が基本のところは何も変わらないのだ。外れた方向を正しく戻すということなのだと私は考えている。造反ではなく、そういうチェンジの一つの行動だといえばみんな納得するのだが、また変えるといういたずらっ子の策略なら、そこでそんな芝居は終わりにすることだ。

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不況のこと

いつもリスクを背負っているのに、どうして不況を予測し対処できないのか。とてもとても不思議だ。なぜできないのか。

リスクマネジメントを学んでも何にもならない。つまり体得していないからだ。マネーゲームに踊らされているだけだったのだ。いいからいいというなんと情けない姿勢なのか。

百年に一回の危機は対処もできないというのだろうか。頻度が少ないということで対象から除外しているのだったのか。

経済学者は何をしていたのだろうか。警告を鳴らすだけの先生方は多い。それは、それで話はいいだろう。危機をあおり、それに対してコメントする。せいぜい、私は予測したといいたいのだろう。

そんなことでは実業の世界ではない。

つまり、どう回避するか。そうならないためにどうするか。為替がどの程度変わればどうなるのかなんてすぐにわかる。その領域が百年単位の出来事だから免除されるというものではないだろう。

車社会がそこで終わることを意味しているのではないのか。もうこの世の中の仕組みに適合できないのではないのか。その警鐘ではないのか。

不況は来るべくしてきた。それは、人類の危機対応の範囲を超えてきたという。なぜだろうか。

チェンジ。

チェンジ。チェンジ、チェンジ。

そう3回叫んだら、そういうことになるというおまじないだったのではないか・・・。

今、次の目玉は何か。宇宙だ。決して車ではない。ということは、もっとエコに気を使い、ほんとにまったくCO2を出さない移動手段を考えなければいけないのだ。

あぐらをかいて、自己称賛をしていて、エコだといってもそれはだれも信じない。不況は来るべくしてきた。大きな波がきている・・・。

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国際政治とは何か

国際性をもった政治家をそういうのだろうか。政治家はみんなそういう認識をもっているのではないか。

今、自国のことだけを考えていればいい時代は終わったのだ。楯つく国々を相手にどう意固地になってもらちは開かない。拉致問題もそうだし、領土問題もそうだ。

領土とは何かという議論もあるだろう。海底も陸と続いているのだということも確かだ。海、空、地下などの領有権はだれにあるのか。渡り鳥の所有権は、高度回遊性の魚類はどうなのか。だれのものか。

国民とは何か。どこの国のひとになればいいのか。国際政治とはそんな境界のない共通していて普遍的なことをまず理解している必要があるだろう。

どうして貧しいのか。どうして富が公平に回らないのか。そんな初歩的なことが実はまったく分かっていない。災害を受ければ復興に時間とお金がかかる。その間、経済は停滞する。だれかが支援しなければならない。いやいやではなく、世界全体のために行う必要があるのだ。

漁業資源にしても同じだ。大気も同じだ。海洋も同じだ。そのうち、大気循環エネルギーがきわめて重要になるのではないか。必要があってかく乱しているのではないのか。もし、そのエネルギーを100%使ってしまったら、新たな弊害が起こるだろう。もし地震エネルギーを検出してほかに利用できたらいいなと思っても、その弊害がなにかあるのではないか。マグマの動きを調整するために地震があるのだとしたら、その動きを邪魔することになる。

そこでちがう影響がでる。

もしも地球の自転をそして公転をエネルギー変換してしまったら、どうなるのだろうか。もう大きな影響を受けて人類滅亡となるかもしれない。

宇宙から侵略されたら、どうする。政治家はどう戦うのか。仲良くするのか。未知の生命体とそんなことができるのか。

国際政治ということをちらっと想うと、何かとてつもないことがいっぱい頭を駆け巡ってしまうようだ。

でも、私たちは自然に生きて成り行きに従ってどこかへ去っていくのだ。それが一番ではないか。いくら大きなお墓を作ったり、家来の兵士軍団や騎馬をそろえてもそれが土偶では働かないだろう。

今、生きているこの世界で何をしたらいいのかと、全世界の人々が考えて、ちょっとおかしいと思う体制はやめていかなければならないだろう。

拉致された国民をどうやって取り戻すのか。そこにもっと知恵を絞って工夫していかなければとんでもないことになるのではないか。日本に国際政治家はいないのだといわなければならないのか・・・。残念なことだ・・・。

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漢字のはなし

漢字イコール恥ずかしさ。そんな感覚がクロザップされている。

結構あるようでない。みんな読めるのに私だけが読めない。コンプレックス感が漂う。

では、問題です・・・。

この字はなんでしょうか。    「 諾 」

ヒントは米国とか英国とか伊、加、豪、氷、韓、露、比などだ。

ちょっとなじみは薄いが、沼津産のひものの原魚はこの国からいっぱい輸入されている。

答えは続きの最期にある。知っているヒトは知っているということかな・・・。でも知らない人は知らないってことだな・・・。

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誤った読みで恥をかかされたこと

ああ、今日はすごく順調だった。そんなことをいう知り合いがそばにいた。私は声をかけた。

じゅんぷうまんぽですね・・・。

うまく伝わらない。ああ・・・なんだ・・・、順風満帆ッね。まんぱんだよ・・・。なに言ってんだよ・・・。そんなきついまなざしがあった。えっ・・・。そう・・・。(声も出ない)

ああはずかし・・・。

穴があったら入りたいというところだ。

まだある。能の世界にあるものだ・・・。

おい、今夜はまきのうがあるぜ。近いから見に行くか・・・。何言ってんだとポスターを見ながら友はいった。薪能だぜ。たきぎと読むんだよ・・・。なんだおまえそんな漢字もしらないのか・・・。大恥だ。もうあいつの前で漢字の話はできないな・・・。

でも、おあいこだ。おれのへまよりもあっちの方が格段に弱いところがあるんだから・・・、おれは知っているから・・・。

こんなことはほんとはよくあるのだ。誤ったとは本人は思っていない。大人であればあるほどそうだ。どっちでもいいこともあるし、ずっと昔はそうだったなんていうこともあるのだ。

英語とか仏語とか西語なんて発音がだいたいちがうから口からでる音はかなりちがうのだ。日本では、そんなのだめなことは分かっていても、なんというくやしさだろうか。

もう、何日も思いだすたびに・・・・・、むしゃくしゃして・・・・。気分が悪い。自分が情けなくてしょうがない。

俺ってやっぱり日本人だったのだな・・・。ニッポンかニホンかもたしか決まりがあったな。まあこれは気分次第だから、その時々で使い方を選ぶというのが正解だ。文法はしらないがそれが社会の決まりだ。だからそれでいいのだ。

いつになく歯切れがよくなってきた。この調子でやってけ・・・。恥をかかされたのではなく、実は恥をかいたのだ。自分でそう悟ったときにそうなったのだ。知らぬがほとけだったのだ。長い間、まったくなんと気付かずにどのぐらい、そうおもわれていたかとかんがえると・・・、やはり気が遠くなるようだ。

だから、おれはほかのヒトが間違って読んでも許す・・・・。相身互いだ。それが日本人だ。下手なことで騒ぐなよと開き直りはしないが、まあいいじゃないか。ノーベル賞学者も英語は高校の時に勉強しないと決めたという人もいるのだから・・・。

漢字ぐらいまちがってもいいじゃないか・・・。そう思わないかい。あなたもどっかで間違っているんだ・・・。漢字だけではないいっぱい単語はあるのだから・・・。

恥をかくのは結構、大切なことだ。そう私は考えるようになった。なぜならば、そこから生まれる発想の差が実は妙にいいのだと気がついたからだ・・・。

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社会の仕組みを考えること

もし、自分が生まれる前にこれからいく社会の仕組みを考えて創造することができるなら、あなたはどんな世界をつくるのだろうか。

実際にはあり得ない話だ。

でも、もしできるならどうするだろうか。利己主義そのもので、自分だけの独裁国家にして死ぬまで生きるのだろうか。そんな人生はつまらないだろう。そして、また君主としていい政治を行うという想像も可能だ。

しかし、自分を特別視するという前提はいつでもあるのではないか。苦労しない仕組みなんていうのをしゃあしゃあとしてつくるのではないだろうか。もうこの辺で自己嫌悪に陥ってしまっている。やはり、こんな前提は無理なのだ。

社会のために名もなき姿で貢献するなんていうのは・・・。自分では作りにくいだろう。ねずみ小僧じろ吉とか、大泥棒もいたな・・・。

今、ある仕組みは、民主主義と共産主義と独裁主義だ。どれが、前もって準備するとなるといいのかというと・・・・、・・・・。結局、みんなそんなことを考えてしまうのか。

俺も同じだ。でもいやだ。そんなところにはいかない。行きたくない。

社会の仕組みを考えることはやはり難しい。それは、生まれたとしても同じ条件で生きていけるとは限らない。ほんの少しの確率でもだれかが、その中に入る。いいことも悪いこともである。

なりたいことにも、そうではないことにも、誰かがそこに該当することになる。

だから、おれは今のところふつうで助かった・・・・。そう考えるしかない。でも、そうでもないかもしれない。ハンディがある。でもいろんなことができる。そんな人たちもいっぱいいる。

健康そうでも、そうでない人もいっぱいいる。

当たり前にしていても、いつも苦しそうにしている人もいっぱいいる。貧しくても、苦しくても、悪条件でも、顔が悪くても、なんでもとにかく明るいひともいっぱいいる。そこには、常に介助者がいる。それが、いい世の中ではないか。

いつどうなるかわからない。それは、生まれてきて自由に考えられるし、どこへでも行こうと思えばいける、どんなことでも頭の中で想像し創造もできるような、すごい能力もある。みんな本当はすごい能力の持ち主なんだ。

それが、押さえつけられてしまう世の中がある。お金もちが得する社会がいいのか。どうなんだろうか。もっと違う社会というのは作れないのだろうか。

みんなが協力して生きていく社会は、やはり一人で考えるものではないと私は想う。とにかくいろいろと議論したり、意見を述べて、そして他人の話を聞いて、そんな馬鹿なことをいってとか・・・、なんてくだらないとか・・・、いろいろと聞くことだ。

そこから、自分の想う主張をしていくべきだと思うのだ。それは、同様に、なんてつまらないという論評を得るだろう。でも、そこでとどまらないだけの根拠をもつものにしていくことだ。そして数十年をかけてそれを磨きあげることではないのか。

社会の仕組みとはそんなところから創られるのではないだろうか。江戸時代はだれが創った300年の社会だったのか。長崎の出島は小さいがひとつの社会ではないだろうか。異文化の中でいきる知恵とでもいうのだろうか。

いろんな教本があることはある。そんな想いを馳せてみた。

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好景気を想う

景気がいい時代にはひとは楽観的だ。不景気だと悲観的なみかたが主流となる。でもその感覚はちがうのではないか。好景気だといろいろなことがすべて良い方向へと進むという前提で考えてしまう。不景気だと逆だ。

でも、わたしたちは日々の生活があって、寝て起きて食べて仕事してそしてぼんやりして考えたりしている。なにが大事か。そんな繰り返しでしかない。

とてもいつかスーパーマンになろうとか、いつか怪獣になって宇宙へとんでいくなんていう生活ではない。普通に細胞の続く期間を生きるだけなのだ。

だから、景気はどうでもいい。いきる糧が手に入ればいい。それ以上は望まない。もちろん他国の領土なんていらない。他人のお金もいらない。より大きくなろうなんて思わない。

ただ、より気持ちが楽に楽しくなるように日々を過ごせることがいい。あったかい陽だまりにうとうとしてみたい。そう考えれば、いつも景気は私たちのものだ。そんなに遠くの人たちの購買意欲に依存していてはだめだというのがわからないらしい。

お椀いっぱいのごはん、それもおいしいごはん、自分たちの土地でつくったお米のごはんと里山からとれた山菜や野菜や果物やお肉もすこしあった方がいいか・・・。

すこし贅沢になったしまったようだが、それにお椀いっぱいの味噌汁とか・・・、あと梅干しでもあればいい・・・。

景気に左右されない生活は、そういう社会を築いていくという基本的な構想がなければできない。必要なものを必要なエネルギーを使って効率的に生み出すのが、これから私たちの生きる糧ではないのだろうか。

好景気がよくて、不景気がわるいなんて誰も思わなくなる時代がくる。そう私は考えている。

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JFK長女とは・・・

ケネディ大統領の人気はすごかった。その長女はもう50過ぎだという。ヒラリー国務長官の後に上院議員になるというニュースだった。

NYKの空港の名前はJFKだ。そんなにすごかったのはなぜだろうか。狙撃されて死亡した。衝撃が世界に走った。その影響は5年ぐらい続いたのではないか、いや今も続いているかもしれない。不滅ともいえそうだ。

強いアメリカ、人権のいき届いた国。そんな印象だ。その印象そのものがJFKなのかもしれない。

やはり、ひとがある意志をもつには、年月が必要なのかもしれない。わが首相は、宰相吉田茂の孫だ。そこに先祖から受け継いだものがあるのではないのか。普通、良家のボンボンは無能呼ばわりされることがある。でも、そこにあるものはお寺のこぞう習わぬ経を読むはほんとだ。

ひとの能力の大半は無意識にはぐくまれたものだと私は考えている。それは、科学的にも証明されるものだと信じている。つまり、私たちの脳みそはあまり性能としては変わらないのだ。脳細胞が2倍も3倍も常人よりあるひとなんていない。

集中と選択という過程でそこに必要な能力が生まれ備わるとでもいえるのではないか。つまり、その職業の真髄とかいうよりも、慣れ親しんだ感覚とでもいうのだろうか。社会に貢献するといっても新しいものの場合は、わからない。知らずに社会悪にかかわってしまう可能性もある。

そんなリスクマネジメントがお寺のこぞうさんには習わなくともお経がひとりでに入り込んでいるのだ。

活躍するのか。それはわからない。今のところ、マスコミにあまりでていないからだ。でもこれからどんどんとでてくるのではないか。次期大統領選にでるのか、それともそのあとかなんて考えるととても面白い。

ブッシュの一言は10インチだった。客観的に物事をみるよりも、もっと精力的に私は一番、いつも一番と人差し指を上げている姿が印象的に想像される。でもいつも親父さんブッシュの顔がちらつくのだ。考え方も何か似ているようで仕方がない。

それでも任期を全うする。靴を投げられても、命を持ってやり遂げたということだろう。あとに続く子孫は、そんな先祖の考えをやはり伝統としてどこかに持っているのだ。なにかが伝えられているのだ。

熟成という言葉が人間にも当てはまるものなのかどうか、それは私はしらない。

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伊豆・富士・駿河という土地の豊かさ

駿河湾を囲む地域は、日本でも有数のところだ。住んで生活していくのに、こんなにめ恵まれた土地があるだろうか。

東北の冬の子供たちのしもやけはない。あっても重症ではない。あかぎれは傷口が口裂けのようで不気味だ。そんなこともない。

でも、この土地の人たちはファッションは冬になると冬用になる。雪国で育った私には、不思議なことだった。どうして雪がないのに、雪靴をはくのか。手袋をしてマフラーを巻いているのか。

だんだんわかった。もう40年近く住んでいるのにそんな程度でしかない。

ここへ学校を出て就職してきたとき、ゴムぞうりで裸足だった。十分あったかい。しあわせな気分に駆られた。一時、東京で過ごした学生時代は貧乏な寮生活で近くの銭湯までの帰りはタオルがビーンとなった。それは、私のふるさとの雪国ではそんなものではない。冬は雪一面だ。何もない。吹雪だ。否応なしに長靴に雪が入りこみそしてしもやけとあかぎれをつくっていく。

だから、春の雪解けはうれしい。

ここはちがう。別世界だ。こんな土地に子供時代を過ごしていたら、もっと体格もよくてこころもきっと駿河人になっていただろう。

豊かさというものは、どこにでもある。そして、この土地の豊かさはかなり特別だと私は思った。そして、ここで暮らそうと思った。

何がいいか。海があること、山があること、川があること、そして歴史があること、伊豆はそんな人間生活とはまた違うスケールで迫ってくるようだ。南洋から押し寄せてきて本州にぶつかって陸続きになったらしい。だから、地震もある。観光名所も多い。駿河湾は桜エビやタカアシガニなどで得意な生態系を保持している。駿河海溝がその源泉だ。

この豊かさをどうやって、世界に伝えるのか。富士山静岡空港は、関東や関西の空港に対抗できるのだろうか。だれも名古屋空港のかわりに静岡まではこない。だれも関西空港や神戸空港の代わりに利用したりはしない。

では、何があるのか。それは、この土地の人たちが昔からもっている豊かさだ。土地柄が醸し出す豊かさとは、どうやったら人々に伝えられるのか。

それは、自分たちが楽しむ姿をみせることであろう。この豊かさを土地の人たちがいっぱい楽しんでいるところを伝えることだ。ありふれたことでしかないかもしれないが、私たちこの土地に暮らしを預けているものにとっては、ここは特別な場なのだ。だから、たのしいとこころから想い一生を送るのだ・・・。

そんな豊かさをみんなに見てもらおうではないか。それには、自分たちがもっともっと楽しめる土地にしていくことだと、私は考えているのだが、どうだろうか。

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ジョークでかわす靴なげ ブッシュin イラク

なんということだろうか。ジョークで10インチだとかわした。そして投げた靴投げ記者はその後どうしただろう。獄舎に投げられたのではないだろうか。

記者会見とか講演とか、それはとても危険な場だ。

イラクへの米軍の進撃は、ハリウッド映画のように全世界に報道された。そして、一方の雄は逃げて潜伏した。どうも私たちは中東に対しての理解が足りないのではないか。イランとイラク。同じような名前の国であり、文明発祥の地でもある。

そんなところに独裁国家があった。なぜ悪いのか。テロ支援国家だったのだという。民主主義国家ではなく、独裁者の支配する国なのだったらしい。

でも、開放するはずの国民は独裁者から逃れてもまだ苦しんでいるようだ。身内をなくし、いろんな戦の犠牲があった。米国だけではなく、その配下の小国の国民も大勢なくなっていることを知っているだろうか。

ブッシュは潔く靴をヘディングで受けるべきだったのではないか。でも、かなり辛い場面だ。かなりせつない場面だ。公人としての立場であり、絶対に安全を期していろんな場面にのぞんでいるはずの米国大統領が、記者会見で靴を投げられる。

もし、靴を投げた相手に「私は客観的に物事を見ている。あなたとは違う・・・」と言ったなら・・・。でも、そうではなく、「あなたのサイズは10インチ」といったという。中東という土地はとても感情起伏の激しいところだと私は、この模様を聴いて想った。

支援するということの意味と意義をしっかりと、大地の中から見定めて覚悟しておかなければならない。それは、すべて同じ反応ではないのだ。プラス、マイナス。ノーコンサーン。いろいろなのだ。

四方八方からみることが、これからは不可欠だ。今までもおなじだったのだが、改めて見直しが必要だと私は考えている。

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日本漁業のゆくえ

日本の漁業はどこへ向かうのか。環境、資源、貿易問題などを左右するのは全世界的な課題である。

世界の人口はどこまで増加するのか。

世界の海はいつまで漁業資源を維持できるのか。

異常気象ははたして人類の活動の結果もたらされたものなのか。

日本の漁業は、水産資源をどう有効に経済に活かしていけるのか。

脆弱な体質をいかにして、もっと消費者に支持された需要に基づいたものに変えていけるのか。そのために、何を今私たちはしていかなければいけないのか。

ほぼ20万人をきり、65歳上が3分の1を占め、60歳以上が半数を占めるという漁業人口である。どこに若者をひきつける魅力を創出していくのか。

こんなに興味深い産業はない。こんなに魅力に富んだ産業活動はない。こんなに想像力に満ちあふれた産業はない。地元に密着し、資源にやさしい漁業がいま、日本のどこかしこでも行われている。

老若男女に今、見なおされている。自然に満ちあふれた水産業がもたらす未来は明るい。そして何よりも世界との共通の資源に基礎をおいて常にその動向に漁業者は目を見張って監視している。

そこに日本漁業の未来が見えるはずだ。

私は、そんな日本の漁業者が世界の漁業関係者への指導的役割を果たすものだと信じている。日本の漁業の真髄は資源へのいたわりにある。漁獲も優しい漁法がおおいのはその特徴だ。

日本の和のこころは、日本料理に通じるし、そこに地元の生鮮な魚介類は欠かせないものだ。今、だからこそ、世界が日本料理のヘルシーさに讃辞を送っているのだ。

資源にやさしい日本漁業を世界に向けて発信していくことが、私たちの役目ではないかと、私は考えている。

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一億総評論家の結末は・・・

みんなが批評家になるのはいいことだ。でも、責任を持たない非難ばかりで、批判ばかりで、国民主権ということを忘れているようだ。

一億人。すごい数だ。パワーはお金で表したり、時に権力だったりする。お金は単価と数量で表現される。どんなビジネスでも、どんなことでもそうなる。一度手に入れれば、大きな単価の仕事ができるとなると、それは単価に反映できる価値のあるエネルギーをもっているということになる。そんな品質の高い仕事は量がでない。

一億人。そこにひとりでも極上の品質の評価ができる国民がいれば、99,999,999人の国民の意見を代表できる。責任を持つことの重要性は、そこにある。無責任ではだめだ。だれがその一人になろうとも、その人は、そう想うことだ。心からそう想うことだ。

私は日本の総理だ。私はこの日本を一番好きな人間だ。私は一番この仕事に適任な人間だ。そして、私が一番だ・・・。

そう本人が想うことだ。私よりもいい人がいるとかいうことではない。みんな何かを目的にする。頭の切れるなんでもできる人間はいっぱいいる。そんな友達がいたら、もうそこで自信喪失なんていうのは俺だけではないだろう。そういう人はそういう人で決してノーベル賞をもらえるとはいかない。

そこに焦点を絞って、仕事をどう選ぶのか。この世の中で、この社会で何を目指すのか。それとも精いっぱいいきることだけでもいいだろう。そこにもし人としての生き方とか自分という存在がしっかりと認識できていれば、いいだろう。

だから、一億の中でそこにたどりつくヒトはごく限られた選ばれた人なのだ。そこで考えるのは、みんながあなたに、どんな批判をしている奴でも、みんながあなたに注目し、期待し、その中で不安も覚えているし、でもそれはあなたにしかできないことだ。

この日本の首相は、一番偉いと私は思う。米国の大統領ではない。日本人にとって、一億総評論家の国にとって、日本国首相は一番なのだ。世界の一番偉大なひとなのだ。地球環境、平和維持、戦争抑止、核廃絶など多くの当たり前に解決すべきことを当たり前に、人権保護を当たり前のこととして政治を行う国の中枢にいる偉大な人間は、日本国の首相であるあなたなのだ。

今の日本に「俺が一番だ・・・」と胸を張っていえる人間はいない。言えるのはたったひとり日本国の首相であるあなただけなのだ。

その人の名はASOTAROという。

決して投げ出さなかったあなたの名前は、四〇〇〇年後の地球の歴史に残っていると私は想う。近隣諸国との関係改善、世界のリーダーとして貢献したひとだと、その記録は語っていたと私は記憶している・・・。今、6008年12月14日(日)の時間は11時12分だ。

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環境産業の飛躍はあるか

蛇の道はへびという。どんなことにも詳しく通じるにはその弱点をしらなければならないのだ。

つまり、環境にいいものは、環境汚染とか海上汚染とか、目をつむることをよく知っている必要がある。鉱物汚染は、大きな環境破壊を生んでいる。それを防ぐには、その汚染のメカニズムをよく知る必要がある。

そのノウハウはどこにあるのか。かつて世の中を騒がせた組織が持っているのだ。汚名返上、名誉挽回ということだろう。かつての悪ものが正義の味方になれるのだ。もうそれしかないかもしれない。

環境産業というものは、戦争兵器にも相通じる。どうするのだ。使用した後の処理をどうするのだ。しっかりとした検証をおこなうことで納得できるものではないが、そこにひとつの考え方が生まれればいいのではないか。

平和を愛する戦争のための道具となる。おかしいものだが、やはり捕虜に対する国際協定などと同じように平時と異常時の対応というものを冷静に私たちは考えておかなければならない。

そんなところに環境産業が広い範囲で活躍する場があるのではないか。リスクの大きいい産業となろう。それは当然だろう。この世の中の行く末を握るのが環境だとすれば、それはまさに世界に共通する市場である。出発点はまず地球にやさしい兵器ということだろうか。ヒトを傷つけない兵器なんて売れないだろうか。

意外とそうではないかもしれない。悪を憎んで人を憎むなということだろう。ヒトは決して悪くはないのだ。そこで行動しなければならないその組織の命令系統がおかしいのだ。だれが選んだのだ。主権在民といいながら、実はそんなことはだれも感じていない。

環境産業が飛躍するには、日本は核問題にしても、水銀問題にしても、大気汚染にしてもいろいろな蓄積がある。そんな今までの蓄積をどう生かすのか。知財に絡むものであり、しっかりとした法的な整備が必要だろう。

まだ、環境というと甘っちょろいことしか考えていないのでは、世界の波に乗り遅れるのは目に見えている。今、やるべきだと私は考えている。

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景気のいい時を思い出そう

景気の悪い時は、希望がある。しかし、景気のいい時は、もう不安ばかりではないだろうか。いつか来る不況におびえているのが人間ではないのか。

どっちがいいだろうか。不況のさなかにその克服に立ち向かうのと、好況に湧く中で下降を危惧するのとどっちがいいのだ。

世の中、波動なのだ。あっちへ動き、こっちへ動く。そういう作用反作用なのだ。

だから、平均というレベルを常に重視していくべきだろう。それはひとがいきることに必要なものを分けてもらうということだ。だれからかって・・・。それはもちろん自然からだ。

景気のいい時を思い出して頑張ろう。今が好機だと悟ってしまおう。そこから始まるのだから・・・。

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政治家の人気は評価ではない

この世の中、まちがっている。すべての人たちが評価を気にしている。TVの視聴率のようなものだろう。多くの人たちがアクセスすればそれだけ、情報としては広まるということは事実だろう。

でも、そこに本当の評価というものがあるのか。私はないと断言する。なぜなら、評価とは成果に対して行うものだからだ。成果ってどんな時にでるのか。それは、加速度的に理解が深まっていってそこで果実となることなのだ。種をまいてすぐに実りの時期がくるというような錯覚を起こしているなら、持続しない嘘のものだ。

政治家も同じだ。他の仕事も同じだ。じっとやりぬく決意がなければそれは回りことを気にする。しかし、そこに精神を集中して打ち込むというより、その疑問という課題に対しての答えを探すなら、そういうことはない。どこまでいけるかはわからない。でも自信がある。なぜならば、やりぬくことがあきらめないことがすべてだからだ。ヒトの評価はきにならない。そんなことはなんの役にも立たないからだ。

政治家も一度まかされたら、自分の意思でなった仕事をすてることはない。ひとは自分から落ちていくというのが真実だと私は想う。

どんなことでも自分で納得できなければ私たちは行動できない。ということは、この世の中にはそういうことを仕組む人たちがいっぱいいる。けしかける。温和な人に議論をけしかける。そこで、負けてまたその人を有頂天にさせる。そんなことは子供の手をひねるようなものでしかない。

あきらめるな。自分でつかんだ仕事を政治家たれどもそんな仕事を選んだのは自分自身なのだから、一度なったら精一杯やればいいのだ。他人も大衆も気にしないでいい。自分の方向性と政治家としての心意気があればそれでいけばいいのだ。国民はついていくのだ。やたらとご機嫌をうかがうようなやり方は必要ないのだ。

麻生日本首相もまったく気にしていないとは思うが、回りがかってに犬の遠吠えで脅かしているだけなのだ。そんな取り巻きはいっぱいいる。どっちでもいい。ほっておけ。失言を気にするようでは大物にはなれない。一つ一つの言葉に神経があり、そこに方針があれば人は付いてくるのだ。

人気とりは人気のないやつに任せておけばいい。評価は自分で建てるものだ。自分で選ぶものだ。自分に対する評価は、自分で下す。それでもやりたいことが終わらない。だから続けてやるのだ。

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資源、海洋、環境

温暖化が進むとどうなる。資源がなくなる。海洋が汚染される。環境が破壊される。

だから、資源を大事にし、海洋をクリーンに保ち、環境を維持することが必要なのだ。だからなのだ。俺達が何をしなければいけないかと一時迷ったのも当然なのだ。

そこにたどりつくまでの過程が必要なのだ。

あと何年で南極や北極が温暖化するのかと考えてみよう。それを望む人はいない。なぜならば、今の環境を私たちは維持していくことが求められているからだ。それは、俺達の子供や子孫のためにいましなければいけないのだ。

産業改革が華々しく推進されてきたこの100年は、それは一過性のものだ。少なくとも50年前に気づくべきだった。でも、それでいいのだ。気づいたときが一番早い手をうてる最善の時期であることに変わりはない。

資源という言葉を聞くと胸が躍る。私の心に何か問いかけてくるのだ・・・。

海は母だという。みんなすべての魚のふるさとである。海は好きだ。大きくて荒々しくて、そしてやさしい。

環境は何だろうか。取り巻くものだ。空間を制御するものであろう。それは、人類の生きることのできる条件を保つことであろう。

これらは、国際的な問題である。個々の国だけでは何もできない。個々の人だけでも何もできない。そしてひとりひとりが一つ一つの国々がやっていくことで可能になる。一個が改善されて、多くの一個が集まって多くのものになる。それが人のできる真骨頂である。

みんなで、この三つを大事に大事にしていくことだ。出来るやつもそうでないやつもみんな生きているのだ。

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見えないパワーの爆発だ・・・

ムンバイ、バンコック。かつての東京での学生闘争に似ている。経済が巨大化しているのは、大衆の力が大きくなっているからである。

リリーフバルブが必要なのだ。中身が急激に膨張してくるとき、そこに混乱が起こる。それが起こりつつあるようだ。

人間の数のエネルギーに加えて、科学技術という進歩が相乗的にかかると、そのパワーは制御できなくなる。社会が大衆の関心を得られないとき、それはテロの餌食となる。

しかし、社会がしっかりと大衆に結びついているならば、それは大衆の受容力として示される。比較的温和な解決方法かもしれない。そこで問題となるのは、社会システムである。経済を止めるということは、大きな損失である。それでもバンコクではそこの論理を超えた行動が起こっている。

スローという感覚は、実は早いのではないか。ずっと昔は一年間の食糧を確保するために活動していた。今は、いくらスローフードの時代がいいとかいっても、わずかである。

早すぎるのかも・・・。そんなことが、膨張スピードと受容力の枠組みの制約でもめているように見える。

日本の団塊パワーもそこであふれるところがなかったことにある。みんなが競争という枠組みの中でもがいても、ほんの些細なことで差を無理やりにつけられてランク付けされるのだ。

そんなことは、100mを30分かけて走ることと10秒で走り抜けることを比較するようなものだ。同じ土俵ではないのかもしれない。少なくとも、10秒から30分の範囲で競争すること自体無駄だ。そこで選別が起きる。

選別は差別とちがうかもしれない。でも差別されることを選別結果は示している。どうもどこか焦点がおかしくなっているのではないか。

常に変わる。チェンジとは普段の生活の中で常に起きていることだ。ことさらチェンジという必要はない。私たちのこの心と身体には、そういうパワーがあるのだ。個々に違う特技を特徴をもって生きていける才能があるのだ。

満たされないパワーはどこへいくだろうか。社会の不満となって爆発する。そして、そこから先は源が尽きれば終結しかない。力不足の中途半端な終焉は、さらに悪い方向へと向かうだろう。

そんな見えないパワーをどううまくエネルギーに変換するかが大切なことだ。爆発力として使うには、準備が必要だ。そして、そいういうパワーの存在をまず認識することが大事だ。社会にとって決して大衆そのもののパワーは脅威ではない。自分たちひとりひとりのものだから、どう結集してよりよい社会の建設のために活かしていくかが問題なのだ。

見えないパワーが、目に見える形でアピールしていると私は考えている。

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中国の力とは・・・

どんな国に行っても、中国の人たちがいる。それは、食べ物であり、床屋さんであり、裁縫やさんである。食べること、頭を清潔にすること、衣服を着ることは、つまり衣食住である。どこへ行ってもやれる。暮らしていけるという自信がそこにみなぎっている。そのために、冒頭のような印象をうけるのだし、与えているのだと思う。

どんなところへ行ってもいる。その土地で暮らしている。多くの現地へ溶け込むと共に、集団としての結びつきも強い。商売が得意である。つまりは自立し、自律しているということだ。

他力本願ではだめだということを象徴していると私は考えている。どこへいっても、助けを借りずに生きられる。そして、そこで現地の人たちと一緒に同一にも暮らしの上でなれる。そんあ気がする。

途上国のどんな小さな国々にも中国の人たちの笑顔がある。欧州の古い都市にも同じ人たちがいる。アフリカの沙漠にも、地球上のあらゆるところに拡散浸透している。

そこにあるのは、強さとか弱さを超えたもののようだ。なぜそんなに自由に生きていけるのか。数千年にわたる知恵、庶民の知恵があるようだ。いたずらに紛争を起こさないで浸透していくことは、個人の笑顔とかその性格自体が関係するだろう。家族という単位、親戚という集団のセーフティネットがあるという安心感もあるだろう。

なにか大きな仕組みが長年の間に積み重なってきている重みが見えてくる気がする。そしてそういうものは、時代の変化でもろくも崩れ去るものでもある。そこがどうも違うようだ。日本とは違う。日本の家族制度も強い絆で結ばれている。そこに何らかの違いがある。

誹謗中傷という試練はどこにでもある。打たれづよいこと、義に熱いこと、知を尊ぶこと、不思議さを忘れないこと・・・、いろんなことがその歴史にある。

変わらないものを私たちは、うつりゆく社会の中で持っていなければ、変化にはついていけないということだろう。つまり、起点をいつも心に持っていることが、すべてのもとになっているのだと私は考えている。

帰るところがある。どんな時にも受け入れてくれる人がいる。そんな空間を心の中に持っていられるなら、どこにいっても生活を自分らしくできる気がしてきた。普段何もしない飲んだくれのお父さん、お母さんにもできることなのだ。やらなくていいと、何もしない。そして、できることを忘れてしまい、今日も昨日の続きで終わる。

そんなことが一番、いい暮らしだと、また言えるのではないか。そこに日本人の良さもあるような気がする。中国の人と対比するのは、まだ時期尚早だろうか。日本はずっと中国の奥深い素晴らしい文化を学んできたのだ。まだまだいっぱいすばらしいものがあると私は信じている。

中国の力とは、本国の人たちだけではなく、地球上のあらゆるところに分散し、地元化しているパワーにあるのではないだろうか。私たちは地球人として、その暮らしの姿勢を鋭く学びとる必要がありそうだと私は考えている。

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APECってアジアだけではないのだった・・・

APECという存在は、感覚的にアジア、太平洋地域ということに限定されていた。私の頭のなかでの話だが・・・。

ペルーでAPEC・・・。一瞬たじろいでしまった。

なんと浅はかな思い込みだったのか・・・。

そこにロシア、中国、韓国、豪州、ニュージーランド、そしてアセアン諸国があり、米国、南米、中米、北米とほとんど大国がいる。

金融危機。内需拡大。WTO問題。

各国が利害得失をもって、対処する。それぞれの国の利害を考慮する。そのために協力する。そんな姿勢が見える。まさにハーバード流交渉術の真髄だ。キューバ危機のときにできた研究だという。それは、やはり世の中を変える大きな動きだろう。

みんながほかの国のことを考えて行動する。利己主義が先取主義と同様にこの世の中の動きをおかしくすることに気づいたのだ。

海流も気流も平面的な動きだけではない。もぐって浮き上がり地球上を8の字やS字みたいに立体的に流れて動いている。それが、気流との間で相互に影響を受けてもいる。

紛争したり、平和に協力したり、いろいろな動きを見せて絡み合っている人間社会はどうも気流と海流などの大きな循環網に支配されているようだ。

APECって、なかなか期待できそうなコンファレンスではないか。見なおそうではないか。

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