美容・コスメ

ようぼうのへんか

若い時の写真。はつらつとしている。

その後の写真。変化している。

二枚を比べるとすぐにわかる。そして、かなりの衝撃を受ける。それに耐えていくかその現実を内心で打ち消していくかの選択はちょっと残されている。

結果、ある時期、ある限界を超えると、次は緊急手段にでなければなrない。どうしても若い時にもどらなければと焦る。

それでも、戻る。それにも限度がある。

どうしようもなくなったとき、健康がいいと感じるように心理面での評価を変える。何が大事かという質問に「はい健やかさです」「はい明るさです」と答えるようにする。

その後はどうする。私は、年齢並みに、年相応にありたいと思うようにしている。昔、20代でも小学生とか中学生に見られたことが悔しくてたまらないのだ。成人映画を見に行ったら、子供はだめだと断られた。その時、大学生だったのだが・・・。

だから、老年はそれなりに追いついていきたいし、できればちょっと格好をつけていきれるぐらいの気負いをもっててもいいかなとも想う。

禿げたらそれは丸坊主だろうか。それとも帽子でごまかすか。それとも・・・。そのまま・・・。まあそれはいろいろだから、どっちでもいい。

ああ、これはだれだったかと鏡をみて自分の両親と間違うようなことは、ありうるだろうか。そんなことは考えないようにしよう。

容貌の変わりようは激しいが、また、その意識の追従も結構速くて関心する。すぐに現実を肯定することができる。それが、チェンジということへの柔軟性なんやな・・・。

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としをとること

老いることは、醜くなることだろうか。醜さを隠すために美容術があるのだろうか。

すごい剣幕で怒られるだろう。それは、根本的にまちがっている。だからどんなに怒られても仕方がない。そして、それは、醜いのではなく、年相応に老いることが大切だ。いくら若さを強調しても逆に老いの醜さに焦点をあてるようなものだ。

ではどうするのか。

現実を認めることだろう。自然体で時間を過ごす。ありのままの自分を見つめる空間がある。そんな時空の中にいる自分の過去、現在、未来をみれれば、それは楽しい。変化とは楽しいものだ。うれしいものだ。小さな子どもがすぐに大人にはならない。

ひとつひとつ身につけていつの間にか大きくなり、自然においていく。

でもそこに子供のころの心はいつまでもだれにでも残っている。というようりも変化しないものがある。生まれてから死ぬまで同じ個体であり続けるのだから、当然だ。

だれもいくら駄々をこねてもだれも何もできない。それが己というものだ。みんな同じだ。老いた人たちの美しさは、日本古来のわびさびという言葉に代表される。そこにひとつの理想的なイメージが美容法としてもある。

若さを強調するために老練な格好をする。それはつまりあこがれを意味している。そんな憧れの姿をごまかす必要はこれっぽっちもないと私は思う。

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男女同権

社会は同じだ。ヒトの上に人を作らず・・・。この世界の仕組みがそうなのだと説いているのだ。天はそういうものなのだ。もちろん男女は同じである。人だから同じである。今、実はこいう社会のシステムが問題になっている。整合性のないことが多く出てきている。それらを指摘されると解決しようとはしない。むきになってしまうのだ。男女はもちろん同じなのだが、ひとはだれでも優越感を持ちたいと願う気持ちがある。現実はそういうことよりも劣等感の方が普通に多い。かんじるものは裏返しである。

卑屈さがどちらにもある。本当にどうしてへっ込んでいるんだなんていうことがよくある。それが他人の場合なら、容認できるが自分の場合ははらわたが煮えくりかえってなんともならない。そこであたふたとしてしまう。そんなことが人生では多い。

パートナーがいれば、そこで軌道修正ができる。気心のしれた存在の人間はだれにとってもいい感じのものだ。とくに質素さという点で、生活が築ければ最高だ。きらびやかさは何かとても空しいきがするのはそういう存在に関係ないからだろうか。それでも、自分が何か怠惰な性格でとても胡散臭くみられるのはいやだ。でもそう見えるなら仕方がないか。それでもやはり、質素な生活感覚を持つことで、しのげるのではないか。

男女同権ということは、決して男が女のひとに譲ることで実現するのではない。対等にたたかいあいを続けることによって完成されるものではないか。今の男女同権は名前ばかりのものではないか。

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赤いりんごと青いりんご

りんごには赤いのと青いのがある。黄金いろのものもあるが、頭に浮かぶのは赤と青である。私はどちらも好きだ。夏休みの川で泳いで遊んだ時のあとの青リンゴはとてもおいしかった。対岸の果樹園からだまってもらってきていたのだが、それがうまいのだ。

クラブ活動が終わったあとの蛇口にかじりついて飲む水と同じぐらいにいい味だ。いくらでも食えるような気がする。日本のりんごはおいしい。いろんな種類があり、同じ赤でも光沢のあるものや、いぶし銀のような渋い色合いのものもある。どっちも私は好きだ。形も平べったいのや長細い感じのものや、まんまるなものがある。形と肌ざわりでりんごの味はわかる。そして食べたい味のりんごはその時のこころの状態で決まる。そんなものだ。

りんごの皮はおいしいし、皮むきの競争も楽しい。長くむけるのは高等技術が必要だ。あったかい国に輸出されてくるりんごは小粒がおおいようだ。ある島国にいったときにりんごの話になった。日本のりんごの大きさに話題がうつり、すごいおおきいことを表現するしぐさで相手も大げさな冗談だとわかったらしくて、その話をすると笑い出すようになった。

次は黒いりんごの話とか、透明なりんごの話なんかも話題になりそうだ。もっとりんごについて勉強してみたい気になってきた。

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大人の顔

顔だけ見ているとわからない。全体の雰囲気がだんだんうざくなっているのではないか。でも変ったのはわかる。昔は自分の姿がショウウィンドウに映るとカッコいいと思っていた。最近は違う。まず、見ないようにしている。お年寄りがあるいている。そう感じたら、自分だった。カーブミラーにだれか年配の人がいるとみたらそれが実は自分だった。

夢を見ていたようなことかもしれない。どんどんと体型が崩れていく。貫禄と昔の人はいったらしいが、それでも細胞寿命では昔の人は若かったのだ。今は細胞寿命の百%も長生きする。人の機能が一部不足して終わることがあまりない。もちろん一般論である。とすると、昔、両親が慰めのために言っていた言葉を思い出した。若い写真を仏壇に飾れるから幸せだとかいっていた。そんなものか。よくわからなかった。

年齢相応に成長して、衰えていけばそれに越したことはない。世の中にはスーパーマンが確かにいる。そういう若いスーパーな人たちもお年寄りになっている。みんなそうだ。もっと自然体でいきなければいけない。そんな殊勝なことをいう。

蓼食う虫も好き好き。それでいい。とにかく選択はできない。自分で自分の人生をすこしだけ感じることができただけでもいいではないか。

大人の顔。それは千差万別である。赤ちゃんの顔。千差万別である。でもお年寄りと赤ちゃんの顔は似ている。中間の顔、大人の顔とはなんだろうか。無に帰す。無に還るのだろうか。もともと何もないところから、自分もでてきたのだろうか。この動物としての細胞の老化はなんだろうか。不老不死の世界はあるのではないか。そんなものがあったら、この地球はあふれてしまう。

大人ばかっりで、みんなが何をするのだろうか。大人の顔はいつか、仮面になってしまうだろう。毎日顔が変わるのが当たり前になる。だからIDにDNA識別因子をいれておく。そういうことになる。

そんな大人の顔なら、今の自然のままがいい。ちょっといやなことを思ってしまったようだ。ああ、いやだ。このままでいい。そう心から思う。

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