昔、あるところに小さな村があった。
そこにはお百姓さんの家があった。
毎日、野良仕事で忙しくはたらく、家で料理を作り、家族なかよく暮らしていた。
そこにはいつも笑顔のはたらきもののお母さんがいた。
とても笑顔がすてきでかわいい女のひとだった。
この頃、なかなかみれないのだ。
勝手に想像してみた。今でも、世界のどこかにある風景ではないか。
それとも、もう世界遺産の光景だろうか。
ひとがいればそういう光景はきっとできる。
今はなくともできるはずだ。
きれいに見せるときは、そうすればいい。不自然さをだせばいい。
いや、この考えは不自然な気がする。
ほんとうの美しさとは、自然なことだと、私は想う。
身長と体重、そして腹周り寸法。
これがメタボの主要な因子になる。
あとは関係ない。
どうも体重ばかりが、攻められるのはいかがなものか。
あとはいいんですが、ちょっと体重がオーバーですね。
そう言われると、ついこころの中で反撥が起きる。
老化現象で関節がきしんでくると、それには筋肉をつけることを推奨される。だが、筋肉をつけて関節保護を行うと、もちろん筋肉が増える。そして体重も増える。
だが、いけないらしい。
どうする。答えは自分で決める。体重は気にしないことだ。
とくに下肢の弱体化が問題になる。だから、ももと腹筋あたりの筋肉が連動していかないとあまり意味がない。
そのためには、やはり体重を維持することが大切になる。
もともと小さいころから、ぽってりとした体格だったのだ。骨太ともいう。身長の割に重いという部類に入っていたのだ。
だが、そのおかげでのったりしているが元気でいる。
それがコツではないか。
お医者さんはどうもありきたりのことしか言わない。
それが、どうにも気になる。だが、体重は体形というものと大きな関係があるのだから、あまり一般的な医師のコメントは気にしないことだ。
ペッパーは、交易の花形として世界を席巻した。
その効能は、よく知らなかったが、かなりのものだという。
私が注目したのは、関節炎などにも効くというのだ。
医食同源ということだろうか。
身内から騙す。昔から言われていることだ。
それも中途半端ではいけない。
おのれを信じきることが、一番の要件になる。
そんなことはわかっているものの、そうもいかない。
信じた先にはなにもないと、うすうすわかるからだ。
それでも、信じきること・・・なのか?
なんでもかんでも「他よりもいいから・・・」ではだめだ。
選挙でもこの消去法しかないのではないか。
あんなに反対していた原発でさえも、対立軸の議論の争点にもならない。
ただただ、よそよりもいいから・・・、そう漠然と見えそうだから・・・、なんていうことが、その大元ではないだろうが・・・、少々心配なこの日本の国民性のような気がしてならない。
不安がよぎる。
これでいいのだろうか。
また、一時的な経済の成長云々で経済指標の高揚をちょっとみて、バブルで下降というシナリオになるのではないのか。
なぜ、そう想うか?
それは、中身がないということだ。
もっと必死になって働くことが、その中身というものに近いのではないか。
男社会の減少分を女性労働で補うことで、プラスマイナスゼロとか、プラスにするというのはわかるが、はたして絶対量が不足ではないのか。
もっと、労働意欲という視点での年齢の限度をなくしたもっと自由な発想の労働市場というイメージはないのだろうか。
若いひとの労働条件が悪化するだろうか。働ける世代とは、高齢者と一度呼ばれると、もうそこで終わりなのだろうか。
全体をシフトするなら、それなりに社会のバランスは保たれる。
晩婚化なら、高齢出産が増加なら、その働きかたを根本的に見直すという戦略的な国家プランも大きな意味をもつのではないか・・・。
都市鉱山ということだろう。
油も、家庭にいっぱいあるということだ。
ディーゼル油にして、いろいろとリサイクルだ。
BDFとかVDFというのは、商標登録してあるらしい。
バイオとヴェジタブルの頭文字のDiesel fuel ってことらしい。
ひとのいるところにリサイクルの資源が豊富にあるということだ。
なんと効率の悪い、生活スタイルだろうか・・・。
たしかに悪いことは法律で禁止して防止していく必要がある。
たとえば、いじめだ。
そして、ストーカーだ。
DV防止もそうだ。
全部この数日間に法律となり、ストーカーとDV防止法はそれぞれに改正された。
だが、どうだろうか。
法律ですべてがよくなるだろうか。
そのあとは、法に従った執行があるから、本当に安心なのだろうか。
大切なことが、そこに抜けている。
ひとの責務と義務というものである。
義務だけではだめだ。義務は法によって生じる。
責務はひととしてのものだ・・・。そこにちがいを感じることで、よりよい社会にしていかなくてはならない。
ノーベル平和賞ってなんだ?
そう想ったものだ。
結果、どうか。
一期4年が経過した。二期目はなんとか手にした米国大統領がいる。
核なき世界はどこへ行ったのかと思ったら、久しぶりに新聞紙上に現れた。
米ロでの核ミサイル削減交渉うんぬん・・・というものだった。
そういえば、ゴール前の混戦でもしものリスクがあるのだ。
核をなくすというよりも、あること自体がリスクなのだと、察知できるはずだ。
相手をつぶすための核兵器は、もうありえないのから・・・。
まだ、保有する核兵器の数は、すごいのだと、思い知らされた。
どうする・・・。
劣化という問題もあるし、その維持管理、保守点検という作業もある。
核なき世界へと導くには、さらなる恐怖の兵器なんていう発想がでてくることが・・・怖い。
核兵器は意味がない・・・という哲学的なアプローチが成り立たないだろうか。
人工知能ならどうこたえをだすだろうか・・・。決まっていそうなものだが・・・。どうか?
同感だ。
なかなか登れない。
一番上は9合目だった。木の鳥居があった。もう神域だったのだから、それでもいいではないか・・・、そう説得するのは自分自身だ。
だが、いつかは登ってみたい・・・。
侮れない存在だ。
毎日、見れるところにいるのに、到達できない。
得手不得手ってやつだろうか。
そう想いながら、足腰を鍛えている。
でも、それだけではない。総合的なちから、精神力も体力も含めて充実しないと登れないようだ。
なんで、みんな簡単に登頂できるのか、うらやましい・・・。
手強い存在だ。敬う存在でもある・・・。
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