門前小僧習わぬ経を読む。
正にこのことをいっているのだ。孟子のお母さんは、お寺のちかくで孟子が寺の葬儀の真似をするのをしった。そして、市場のそばに住んだところ、孟子は市場の仕事の真似をしたという。そして、三度目はどこへいったかは、もうおわかりだろう。
環境に順応するというこどもの特徴をよくつかんで教えていくには、環境が重要なのだという教えだ。
とすれば、わが状況もよく理解できる。むかしはそんなことよりももっと大事なことを両親は教えてくれた。貧乏でも、正直に素直に懸命に生きることを実践してくれた。
いつの間にか、ある環境に順応してしまっている自分に気づいても、なにもできなくなっている。それもひとつの順応だ・・・。
欺瞞。
傲慢。
これでは、どうもよくないだろうという気になる。
だから、知らない漢字でもつぎのものが必要だろう。
謙虚。
ご利益。
すくなくとも、こどもには貴賎の差はない。
みんな同じだ。
日本の教育のいいところは、みんな同じということだ。
だが、じつは差があったのだ。
教育は公共のものというのがあたりまえだと思っていた私は、幼児教育から英才コースがあることを知らなかった。
おとなになっても、やはりいい指導者に巡り合うことで人生は変わることを知った。
いつも、私たちは指導者を求めて生きているのではないか。
いいひとがいることを知らないままで、この人生を終わるのは、悲しいことだ。
反面教師ということもあるが、それも基本は同じだ。
いつごろから、貴賎というものがこころに出始めるのだろうか。
私たちがそう想うことはない。
だから、きっと差をつけたいと想っているひとたちが、無理やりに植え込むのだろうか。
どんな意義があるのか。
こどもが大きく成長するには、やはり基本的なものがそのインフラになるのだ・・・。
答えは手術などの止血シートなんだという。
蟹の甲羅はキトサンだ。昆布のぬめりはアルギン酸だ。
これらから高分子化合物をつくると、止血シートができるらしい。
自然に生体に吸収されてなくなるから、都合もいいらしいのだ。
いろいろなものができる。
材料原料がこんごの最大のネックになるのだ。
資源の囲い込みの争いは、十二分に世界の対立への原因になる。
そこでどうするのか。
平和裏にものごとを進めるには、どうすべきや?
自然災害はいろいろある。
どれも恐ろしいものだ。
竜巻被害が米国大陸の中央部で継続してあった。
すごい。なんてこった・・・。そんな感想しかない。
だが、回避しようがない。
想定を超えることがおおい自然災害の規模が問題だ。
自然を破壊していることに、災害が起きる原因が存在しているのは事実だ。
なにもなければなにもない。
自然が大自然の懐であそんでいるようなものだ。
だが、人類は生物の多様性まで脅かしつつあるのだから、砂浜海岸のなだらかな勾配も、堅固な断崖絶壁も開発で負荷をかけ過ぎている。
津波の破壊力も自然のままであれば、自然に吸収されるのだが、人工物はいとも簡単に破壊される。微力で知能の足りない人類は、津波にのまれてしまう。
賢いひとは、注意を何度となく喚起してきた。
だが、人類はそこから撤退することも、新たな知恵を出して回避することもできないでいる。
その場しのぎの対処で、ごまかす。想定を超えるという理由でごまかす。
どうもそういう姿勢しかないようだ。
大陸が沈んだ過去を考えれば、その程度はいのちがあれば、なんとでもなる・・・ともいえよう。
想定外は、人類の知恵をはるかに超える結果がどの程度なのか・・・というところにあるようだ。
宇宙が消滅するぐらいのこととしたらどうだろうか。
その問題が解明できるなら、人類は災害の防止なんていとも簡単にできているのだが・・・。
思慮だろうか。配慮だろうか。無駄な努力だろうか。
思い上がりだろうか。
自分の寿命をまっとうすることができるかどうかだろうか。興味がなくなれば、そこで終わる。好奇心の問題か・・・・。
ひとはなんで考えているのか?
言葉だろうか。
脳みその機能的な部分で思考しているのだ。
そこに言葉は入り込むか。
聞いて、話して、情報を交換する。意見を表明する。
そんなときに言葉はいる。
だが、思考はちがう。
もっと理論的に日本人としての思考方法がある。
言葉ではないものがある。
そこをわかってほしい。
国際化に遅れていると騒ぐ教育関係者の姿勢が不明確である。
知とは英語か。
言葉で思考能力に差がでるか。
私は日本人として、思考することが一番、この世の中のためになると考える。
ことばは、単なる媒体であることをよく認識しなければいけない。
そこに文化と伝統がある。
すっかり信頼しきったかおがある。
なにも疑わないという目だ。
でも、わがままだ。
とうぜんだ。
えがおは、こどもの自然のものだ。
育児って大変だ。そして、育てられる赤ちゃんも大変だ。信頼するしかないと大人はいうが、そうすることがあかちゃんの最高のパフォーマンスなのであり、才能なのだ。
みんな天才だ。わが子らもそうだった。かわいくて仕方がなかった・・・。いまでもまったっく同じだ。ひとつもかわりはしない。
日本は国家の骨組みをつくるときに、その屋台骨となる官僚の育成から始めた。
たしかに、優秀な官僚たちは、政治の世界へ、民間産業へと繰り出して、この経済国家を作り上げた。
そして、もちろん官僚大国の構築に一番精を出したのだ。だから、しっかりとした産業界ができたのだろう。
しかし、保身という中身が表ざたになることはなかった。当たり前、貢献しているものが、その報酬を得るのは当然という仕組みでしかなかった。
その一部で貧しさの克服に回れば、多くの命が助かる場合でも国家の骨格を崩さないためにお金を回したのだ。それがいつの間にか、当然の既得権益となってしまった。だれも自分の懐をなくすようなことはしない。
出来上がった仕組みを壊すのは、まったく関係のない部外者でないとできないのだ。
これからの日本もやはり、たまごの育て方が一番だ。最重要課題だ。
どう育てるのがいいのか。
東大をいくつもつくるのは、もう時代遅れだ。子供たちに教育の機会を与えることに汲々としてはいないだろうか。遊ぶために大学へいく。当然だろう。それでは人並みだから、大学院へいく。そこで何をするのか。
決まっている。
昔の子供たちが、小学校で想ったことではないのか。勉強なんてできるかどうかわからない。でも、中には、どうしても上の学校へ行きたいのに行けない・・・。そんな気持ちがあっても家の事情で働きにでた子供たちがいた。
ひとは学歴でいきているなんていうのは、昔のことだろう。
でも、そこに真に学業というものに向き合いたいと想った子供たちがいたら、それが一番大事だということを知らせてやれる教育でなければいけないのではないか。
卵たちの育て方は、いろいろあろう。でも、創意工夫や質実剛健ということをおろそかにしていては、お先真っ暗であろう。
どう育てる。与えるのではなく、ひとりひとりの子供たちが求める教育へと変えるべきではないか。優秀なこどもやそういう才能は、とくに学校でまなぶこととは関係なく、開いていくだろう。
そんなもっと違うパラダイムへとこの日本という国は進むべきではないのか。
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