芸能・アイドル

生きるすべ

芸能界には、多くの才能があるのだという。タレントが大勢いる。キャラというものがあって被ってしまうとどちらかがこけてしまうようだ。そして、相乗効果というものもある。

それがモノマネだろう。

数多く、大衆にさらけ出すのが有名歌手の名前なら、それはその人気のさらなる上昇というか普及広報に役立つことになる。うれしくないことはないだろう。でも一蓮托生となるリスクもある。

自分が主役と駄々をこねる人もいる。人生、口はっちょうだよという。でも、気をつけよう。甘い話は気をつけよう。

今の時代にそんな・・・と思わないでほしい。生きるすべを身につけよう。

いや、もともとどんな人間でもそういうことをもっているのだ。赤ん坊はかわいいと普通のひとには見えるのだ。大人は頼もしいと普通のひとにはみえるのだ。そして母は強いということも普通のひとにはわかるのだ。

生きるすべをどうやって活用するか。生き続けることで、それは証明される。それしかない。生きるすべとは何か。毎日、同じことをして、生きることだろうか。そうできなくなることの方が多いのは事実だ。

結局平平凡凡ということか。不満げな日々の生活を続けることが、実は生きるすべが使われて力を発揮している姿なのかもしれない・・・・。

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小室哲也に期待すること

時代の寵児であろう。昔からその人の評価は死後百年ぐらいかかることもあると聞いている。

そんなの嫌だ。私はそう想ったものだ。自分のやったことの評価は、自分がいなくなったらそんなのはまったく意味がないのではないか。そう真剣に考えていた。

幸い、私にはそんな力はなかった。そして、平凡な生活だが、普通の人として生きている。中級の下の下ぐらいの位置づけだと私は感じている。お金は天下のまわりモノという。おふくろさんがお金はその時に得た価値でその時に使うのが一番だといった。それは決して江戸っ子のお金の使い方を言ったものではない。

稼いだお金で日々、生きろということだ。つまり、できるだけ節約して、おかねの流れを止めないようにして生きろということだった。仕事と私的なお金は別物だが、共通しているのは同じだ。懐になければ払えない。

街にでるのにコインがなければ電車にもバスにも乗れない。ちょっとお茶を飲むこともできない。

ファーストクラスを貸し切って2000万円ぐらいの費用を一回の移動にかけるというのは、プロモーションの仕事の一部なのだと思うが、そういう費用を恵まれない子供たちやお産をあつかう施設に支援するという方が、ずっとプロモーションになると私は思う。

栄光は、自分のものかもしれない。そして、ちやほやする人たちのお金儲けのタネかもしれない。逃げも隠れもできない世界の有名人が、どうして質実剛健という日本の質素さに気付かなかったのだろうか。

そういう精神があったとすれば、そこに支援し応援する人たちは心からのものを時代の寵児を通じて、社会に還元しようと考えるだろう。小室哲也基金とか、KOMUROアフリカファンドなんていうことも、決して私財を投げ与えるということではなく、その時その時の1円硬貨を使うやり方でできたはずだと私は考えている。

そして、支援者は、時代の寵児の持っている数百億円のパイではなく、これから世界に貢献するだろう数千兆円の価値をそこに築けただろうと・・・、私は残念でならない。ビルゲイツを超えるような将来構想が描けたのではないかと、私は想う。

ちっちゃなパイにとらわれずに、地道にしっかりと世界を見てほしい。NYKの華やかさではなく、日本のお茶漬けの朝食のようなさわやかさで、再び蘇ってほしい。時代は繰り返すという。みんな人生で一度や二度や何度でも失速する。途中で些細なことで、命を無くすひとも多いのだ。

小室哲也に期待すること、それは小さなパイしか見えない支援者ではなく、大きなパイを創ろうという協力者をしっかり見分けて、おきあがることである・・・・。それは、一緒にやってきた音楽の仲間の二人ではないだろうか。彼らのコメントはそんな地道なものだと私は感じたのだが、どうだろうか。

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キャラの存在

いろんな売り方があるようだ。そこに出せる下地がいいのでなければ、とても無理だ。

キャラがいいのだとヒトはいう。

おバカキャラがいま売れている。本当に馬鹿なのではないかと心配にもなる。そんなスタイルでばかりではないらしい。一見して、そうではないというタレントもいる。

そのキャラはちがうだろうと・・・、わかる人もいる。

楽しくて、明るくて、そして芸能界で打たれ強いということだろうか。処世術にすぐれているということだろう。それだけの潜在価値があるということだろう。

世の中のニーズを満たしてくれるということだろう。理屈抜きでいいキャラをもっているひとは芸能界だけでなくとも、とても引っ張りだこである。

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蛯名家の泰葉さん

最近、ちょくちょくTVやニュースにでてくる。どうしてかなと疑問に思っていたが、離婚したのだそうだ。林家三平の弟子、小朝師匠の奥さんだったのだ。

仲がいいという理解でいたが、どうも何か感じがおかしい。歌手復帰という報道もあり、弟の一平さんが補足説明にでたりとか、お母さんがFAXを流したりとか、なんか飛んでしまったのだろうか。

落語家の旦那は、お笑の先生のような賢い人たちだから、冷静に見える。でも違うのだろうか実生活はめちゃくちゃなのだろうか。奥さんの側からみると、とんでもない人なのだろうか。

長年、いると空気みたいな存在ではなく逆に重荷になるのだろう。日本には、とくに地方には何か友達風のいい夫婦がいっぱいいる。

この報道はあまり興味がないのだが、私がそういう興味のないなりにニュースを見て感じたのは、彼女の目が何か飛んでしまっているような印象を受けたのだが、ちょっと心配である。

日本文化の誇りである落語界を背負うひとの奥さんだったひとが、またそういう世界の中ではじけたのだろうか。庶民感覚というのは、もうないのだろう・・・か。

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タレント業界のハチャメチャさ

どうにも止まらないようだ。最近のタレントは、なにかセレブという言葉に踊らされている。

たしかにそういう人もいる。決して差別するつもりはないが、どうも生活が乱れているのではないかと気が気でない。

ともすると、ひも付きタレントというような存在もあるのではないか。親がだめで子供ががんばるなんていう批評家もいるようだ。親がだらしないので、子供がその分しっかりしているというのだろうか。

あまり因果関係はないように思うがどうだろうか。どんなことでも何かに関連付けてもっともらしくするのが面白さを醸し出すコツだと考えているのだろうか。

お笑い番組のお笑いタレントはそれは頭が切れそうだが、何かひとつ物足りない。笑いをこの世の中の基準にしているのがほんとうにいいことなのだろうか。

ヒトはそうしたくないときもある。

つまりは、ハチャメチャできなければタレントにはなれない。しっかり者は笑い物になり、業界から放り出されるか干されるのだろう。どうもそこに需給バランスが成立するのがおかしいと私は思う。

政治の世界もハチャメチャでないと、業界ではやっていけなくなるのかもしれない。独裁国家のやくざとの付き合いが大事になってきていると、だれかがうそぶいているのは、この日本の官僚のようだ。政治主導とは、どんなことなのか・・・。

日本のタレント業界と政界はそのハチャメチャさで同じ分野にカテゴライズされる日が近いとニュースが報じる日もくるかもしれない・・・。

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日本の女性の美しさ  清楚さ・・・

どんなスタイルでも、そこに均衡がとれている。最近、私にはそう見える。

昔は、日本の女の人ってどうして、ちいさくて太っていてバランスが悪いのかと本当に想っていた。それが、なにかひとの美しさというのは、いわゆるきれいとかいう物差しだけではないというのが分かってきた。健やかさとか、こころの持ち方とか、ほんの一瞬の表情とかが、とても忍耐強いものに見えるときがある。

バランスのなさのなかに均衡がある。つまり、いま持っているものを使いこなしているという感覚なのだ。そこがいい。そう、私は考えている。

日本の女性の美しさは、資生堂やほかの化粧品メーカーの宣伝だけではないように思う。

言わせてもらえば、やぼったさもひとつの日本女性の長所なのかもしれない。さっぱりした感覚、淡さとか清らかさ、清楚ということか・・・、そんなものが何かとても心地よさを感じさせてくれるのだ。

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万人が認める美貌とは

私たちの大きな能力の一つに顔認識機能がある。

これがないと私たちは識別できなくなる。服装はわかるが顔を覚えられなくなる病気というか、欠損しているヒトがまれにいるのだという。母親の顔がわからない。だから輪郭で判断するとか体全体で認識するのだそうだ。

そんな機能があるのは、たぶん万人が認める美貌というものにも何か共通のものが関係しているのではないだろうか。こんなに奇麗なひとがこのよのなかにいるのだろうか・・・。そう想わせるひとがいるものだ。男女関係なくそう感じさせるひとがいるのだ。

それは、きっと風格、風貌、気品とか、気やすさとか・・・、そんなことではないだろうか。そういう普通のことの評価がすべて◎になるようなひとがいる。

そんなとき、この世の中に生きていてよかったなあと感じる。たとえば、最近の竹内結子なんかがそんな気配を漂わせてきている。結婚して離婚してもまったくそういうマイナスの印象を与えない不思議な魅力のある女優だ。

きっとほとんどのひとがそう感じていると、・・・・。ちがうだろうか。

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ヒントは組み合わせだ

男女の組み合わせ。女性どうしの組み合わせ。男の組み合わせ。多数のグループ。一人のみ。

いろんな組み合わせがあった。芸能界はいろいろと考案するものだ。お笑いしかり、シンガーしかりだ。

そんなとき、きりたんぽとカレーという記事をみた。こっちも組み合わせだ。食材をどうアレンジするかというのがテーマのようだ。第一印象はまあおいしそうということだ。

でも本物となれるのは、ほんのわずかだろう。なぜなら中国四千年の歴史で多くの試食が行われてきたにちがいないからだ。日本だって同じだ。野菜、魚、肉類、ひもの、保蔵品などいろいろある。そんな組み合わせで残っているもので、または再現することで、ブレークしそうなものはあるだろうか。

食は文化だから、いやなものはいやだ。どんな組み合わせでもおいしければいいものになる。嫌いなものはほかの人の味覚でよくてもだめだ。みるだけというのもありかもしれない。食べない料理とでもいうのだろうか。

これは意味がないとしても・・・、

ヒントはそういう組み合わせの成果だろう。

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おやごころと芸人

親はだれもが、自分たちの子供には普通にすくすく育ってほしいと、薄氷を踏む思いで望んでいる。

だから、いつも薄い氷の上にいると、いつかは落っこちてしまうはめになる。そして、私はそういう心配をかけるのはよくないと考えるようになった。画家とか小説家とか、芸術を志すには貧乏人は向かない。どっかでけりをつけなければならないのだ。

オッカアを楽させるために・・・。

今、時代は変わった。お笑い芸人になりたいという若者が増えている。みんな賢そうな秀才が多いように私には見える。なぜなんだろう。

その答えが、実は「おっかさんを楽させる」ためなんだということのようだ。変わったのだ。完全に考え方がシフトした。いつからだろうか。TVのアナウンサーがニュースを伝えるひとから一種のタレントになったのもこの傾向を示すものだ。

親はお笑い芸人に子供がなりたいといえば、この子はそんな難しいことに挑戦する勇気ある子に育ってくれたと思うという。

確かにヒトとしての優秀さというと、協調性があり、理解力があり、明るい人柄ということだろう。そんなヒトに私もなりたい。

たしかに時代は変わっても、また繰り返すものだ。ヒトは生まれつき喜怒哀楽という感情をもっているから、明るいヒトにはだれもがなれるのだが、そうならないこともある。

子供たちの親としては、普通に生きてほしい。そしてできるならばヒトとしてできることを全うしてほしいと思う。明るさはだれにもある。暗いヒトにもすごく明るいものがある。それは私たちがコミュニケーションするための「喜怒哀楽」の一つなのだから・・・。

芸人の人たちは、親孝行をしっかりとやって模範になってほしいと私は思う。

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利口なバカたち

羞恥心とか、おバカさんとか言われて人気のタレントがいる。男女とも本当にすぐれたキャクターだ。なにかきらっと光るものをもっているのだ。

本当に本当は利口で利発なのではないか。そんな疑問を吹っ飛ばすパフォーマンスが秘密なのか。私たちは常に競い合っているから、ときどきああ勝てそうだと思うと気が緩むのではないか。そして安心し安全だと勘違いをする。

そして、バカだといわれると腹を立てる。みんなそうだ。だから人前では意地を張ってばからしさを隠している。みんなそうだと信じていた。そうするべきだと考えていた。

私はあなたとは違う。客観的に自分を見れる・・・、それが浅ましく見える。普通は、私はあなたほど偉くはない・・・、とかいうだろう。

ところが違った。バカということで受けているのだ。

利口なバカどもなのだろう。でもそんな芸達者が本当にそうなのか。よくわからない。ヒトは世間の評価で大きく変わるということだろうか。

とすると、世の中をすごくいいものにしていくには、リーダーをそうやってはぐくんでいかなければいけないのではないか。芸能界も政界も同じではないか。一時のいじめではなく褒め殺しでもなく、やはり強力にバックアップすることで、天才的に能力を発揮するということは疑いのないところだ。

もっともう少し早くそうしていれば、いじめっこの悪い手口に引っかからなかったのに、ちょっとておくれだったようだ。

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げんきのいい人たち

生き生きしている人たちのグループがある。

いろんなメディアに顔を出し、その才能をいかんなく発揮している人たちだ。若くして、才能を見いだされて活躍する。

タレントとはそういうことだ。自分で創作もする。企画もする。

そして、その中で主流へと駆け上がっていくのだろう。そんな姿は元気があってうらやましい。思う存分、あるだけの才能を活かしている姿は神々しくさえある。ひととは偉いものだと感じる。

みんな同じ数の細胞でできているのに、どうしてそうも大きく違うのだろうか。ふとそう想うのだが、ここが違うらしい。あまり違わないのだ。ひとが生きていること自体すごく奇跡的なことだから、ひとの世界に日々いきている私たちは、えらいひともそうでないひとも大きな差はないのだ。

げんきのいいのは、それでもいい。ほんの少しのちがいだけなのだが・・・。この解決策はあるだろう。

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普通のひとと芸能人のちがい

普通の人になりたい。普通の女の子に戻りたい。そういったのはキャンディーズだ。すごい人気があった。寝る時間なんてなかったのではないか。

解散したら事務所が困る。芸能人はみんなそんなことで悩んでいるのではないか。それとも普通の人のまんまで芸能人をやっているから、戻る必要もないかも・・・。そんなひとも稀にはいそうだ。

日々の生活はちがうのか。寝る時間はあるのか。眠るのか。酒を飲んでばかりいるのではないか。怒りっぽいひとがおおいのではないか。見栄っ張りな人がおおいのではないか。いろんな性格の人がいるだろう。なんら違いはないだろう。

でも違うだろう。大きく違うだろう。

それはもって生まれた才能がちがう。そうではないか。努力だけでは芸能人にはなれない。人前にでることが芸能人だろうか。そうではない。タレントは才能という意味だし、・・・。文化人かもしれない。有識者かもしれない。

自分の意識をもつことがその分かれ目ではないか。普通のひとでいたい。そう普通のひとが願っているのを聴いたことがあるか。芸能人は一度やったらやめられないのではないか。時代はどんどん変わる。それは、すごく早い。そして忘れる。

おごる人たちが芸能人か。平凡さを笑う人たちが芸能人か。みんなの批判にさらされるのが芸能人か。そうではない。

みんな同じだ。この社会のシステムの中の分担だ。何かをやってこの世の中の役に立つ。それが私たち一人一人の使命だから、それを望む大勢の人たちのために少数の芸能センスのある人たちが働いてくれているのだ。

でも、ちょっとちがうのは、一生の終わり方が違うようだ。おごりが生活を乱し、命を無駄にしているような芸能人が多いのはなぜか。ヒトは、一日一日を当たり前にいきること、質素にできるだけ質素な生活を楽しむことで、何か大切なものを手にできるのだと私は思うのだがまちがっているだろうか・・・。

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感じのいい人たち

世の中には、素敵だなと思わせる人たちがいる。それは、その人たちが私たち部外者が望むものを持っていなくとも、外見でみることしかできないというプロテクターで守られている。ところが、ギャップが大きいと、なぜという言葉とともにバッシングされる。

だから、有名人の中にも感覚は同じ私たちの仲間もおおい。つい、気がついたらとんでもないことをやってしまっていた。そんな感覚ではないのか。とくに感じのいいアイドルはその本人には関係なく、社会の人格や品格を持つことを黙って期待されている。

そのままでいい子はいいのだが、中には外見とは異なる子もいる。そんなとき、だれかが面倒をみてきたのだろうと思うが、今は、いないのだろう。世の中、大将もちいさくなって行動を明治に戻すわけにはいかないだろう。そんな中でも逃げ切るひとはいる。だれもが、他人のスキャンダルは面白半分にしか感じることはできない。親身になっていると表向きはいってもそんなことはわからないし、逆に、それがスキャンダルになることもある。

感じのいい人たちは、そういういいものをもってうまれてきたのだから、自然でいいのではないか。ドラマの中での印象は意外と現実に似ていたり、違っていたりするから、それは私たちの一般的な感覚として、いい役者という評価になる。決して、個々にどうのこうのということはない。

ほんとうはどうなのかと、心から心配する必要はないのが一般大衆の一人としての私たちなのだと私は思う。そんなことは、振り払えばいい。そう生まれてきたのだから、自然体で自由に行動するのがいい。私的な時間はだれにでもいるものだ。どんなヒトにとってもそれは生きる支えとして必要なのだ。

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勢いのあるとき

ひとにはかならず過去がある。勢いのある時が、あったはずだ。

何事にも引けを取らないような、そんな気持ちの時があったはずだ。でも、今は昔の物語ということが多いようだ。もっと若かったら、もっと健康だったら、そして、どんどん欲をだして、もっとスーパーマンだったら・・・、とかそんなことを考えることはないだろうか。

私はない。

いつも今が一番だと思っているし、それしかないのだ。あの転落して怪我したときも、もっと小さかったころに新しくできた高専に落っこちたときも、へこたれはしなかった。目の前は真っ暗になったようだったが、その時はその一瞬しかない。何かその今というときにへばりついていた。そして、ずっと今が続いている。

どこかで、振り落とされそうになったかと思いもしたが、時間はそんな心配をする必要はない。毎日、規則正しく食べて、弱くても強い意志をもって誠実に生きれば、そこの時間は自分の時間としてずっとついてくるものだ。

でも、もし勢いがなくなって、そんないつもある時間に離れてしまったら、どうする・・・。

時間が勢いを作ってくれている。眠る時間を与えることで、勢いが絶え間なく作られているのだから、心配する必要はない。 

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うらやましい才能たち

すごい奴らがいっぱいいる。元総理のお孫さんのロッカー。前総理の息子さんの俳優。今に日本中すべてが有名人の子孫だけになってしまうのではないか。そんな心配をしている。

そしてとても羨ましい。そういう才能がうらやましい。本当は元だれだれのなんとかなんていわなくてもいいのだろうが、現実をそのままとくべつな意図もなく言ってくれるのは、すごいことだろう。力が、才能がなければ、どうしてもこそこそしてしまうだろう。

だが堂々として立派な才能を発揮している。実にすごいやつらだ。そして何か普通の生活感覚で安心な感じもいい。そうでなければ、昔のスターでしかなくなる。自滅するしかなかったのが昔のスターだった。特別な才能はとくべつな健康に恵まれ、とくべつな生き方が保障されているという錯覚を私たちまわりのファンがそうさせていたのだろう。

今うらやましい才能たちは、みんな自由に個性を発揮し生活を楽しんでいるようだ。そんな自由なライフスタイルが実にすがすがしい。私は大好きだ。

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ホンダの軽

ホンダの軽自動車。けっこういい。ハンドルが普通車と同じ感覚だ。エコでもある。リッター25キロは走らないけれども18キロぐらいは少し長い距離を走ればすぐだ。

燃費の表示もある。むきになって燃費を向上させようとしてしまう。坂道はやはり燃料を食う。ヒトの感覚と同じで、機械エンジンも大変な坂道だ。事故を起こさないようにするには視界が重要だ。

けっこう見えない死角がある。それは、気をつけるだけしか対策はない。気をつけるのは後方からの車ですぐ接近しているやつだ。ほんとにミラーにないのが急に現れたりする。広角がいいのだろう。直接みるのがやはりいちばんだ。急にハンドルで方向を変えないことも重要だ。すこしスピードをあげたりさげたりしながら、回りにいるかどうかをみるのも一つの手だ。

ホンダの軽はいい。性能が近距離を走るにはもってこいだ。

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スター

脚光を浴びる。そんな恥ずかしいことはできない。そう私は子供のころ確信していた。なぜそうなのか。それは貧しかったからだ。

子供心に親心がわかるのだ。そんなことは当たり前なのだ。もっと違うところに子供と両親の気持ちがある。それは、子供たちの問題だ。それは大人たちのもんだいだ。なぜ、そうなのか。それは、まさにこの地球の動きに比例している。

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アイドルはバカなのか

アイドルは本当にあほなのだろうか。たしかに一芸に秀でた集団である。そしてそれがゆえに同年代の子らに比べて知識的には劣っている。理由は勉強する時間を仕事に充てているからである。そしてそういう生活に慣れてしまう。

ようく見てみよう。そういう中に、いろいろなものを売り込むのが上手なアイドルがいることがわかるだろう。それまで本人も自覚のないままにアイドルになっていたのが、急に変化する。学び方が上手で吸収が早いのだ。つまり利口な子らが多いと私は考えている。

年月を経て経験を積んだらそこにはすごい人間になった元アイドルの姿がある。そしてそれはなるべくしてなったという。天才肌が開花するという現象に似ている。アイドルは自滅する。そういうことも間違ってはいない。しかしほとんどの天才たちはそういう間違いを犯さない。ほんの一握りの間違ってアイドルとか天才肌とか呼ばれた他人本位な個人たちがそこで篩(ふるい)にかけられているのだ。そう私は思う。

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笑顔に魅せる

もともと笑顔のいい人がいる。その人は普通にしているのだが、どうも周囲からはいつもとても注目されるような感じのヒトがいる。顔ではなく雰囲気がその背景にあるのだと思う。とくに二人並んでいると、失礼ではあるがその差は歴然となる。でもどっちが本当はどうなのかを言っているのではないので表面と実際は違うことも多いようだ。

いい人だと思って近づいてみると、意外と馬鹿にされてしまうこともある。そんなときは、人は見かけによらないという昔からの言葉が頭をよぎる。同じことをずいぶん前から感じていたのだと少し安心する。でも自分がもしそういう風に取られていることがあるとすると、とても嫌な気がする。そうはなりたくない。だから、そういうことを考えたあとは、何か卑屈なほど遠慮勝ちになってしまう。

しかし、敬語を使う場合と同じで、どこかで区切りをつけないとまったくばかげた異なってしまうのは目に見えている。だから、私は言葉も文章もぶっきらぼうな方がいいと今は思っている。

笑顔に見える。それはそのひとの責任ではない。笑顔に魅せるというのか、笑顔を魅せるというのだろうか。ちょっと悩むところである。真の笑顔ではないが、そう見せて魅入らせるということだろうか。やっぱり難しいと私は思うが、かわいい女の子にとっては簡単なことかもしれない。なんら努力なしに生まれつきそうなのだという感覚かもしれない。

年を重ねると、この表現が実は変わってくるようだ。内面から何か噴き出すような雰囲気で体全体が笑顔というか、愛嬌をふりまいているというか、大人の雰囲気でいい年の取り方をしていると感じさせる女がいる。それはどこから生まれるのだろうか。天真爛漫な素振りが経験を積んでそうなるのだろうか。どうも違うような気がする。それも見世物ではないのだろうか。ふとそんなことを想ってしまうのはどこかおかしいのだろうか。

大衆に見せることは大変なことだろう。最大公約数というようなことだろうか。だれの目にもよく映ることが芸能人の成功の秘訣なのかもしれない。

そして今感じているのは、たしかに文明社会というか、TVなどの映像産業が盛んなところではそういうことだが、自然の中でそのまま暮らしている人たちが世界にはいっぱいいる。いわゆる貧困撲滅の対象になる地域の人たちの笑顔は子供や大人にかかわらず、私はとてもいいと思う。赤ちゃんも老人も男性も女性もそれぞれが生き生きとしているのはなぜだろうか。懸命にいきる。一所でいきる。だからではないのか。自分のふるさとはそのまま自分のすべてなのだから、他から来た人たちにそう見えるのだろうか。

ふるさと、田舎の兄弟親戚を思い出すのはそういえばいつも笑顔だけのような気がする。両親の顔もそういう風に思いだすだけである。笑顔をわすれていたことに気づいたのはこの数か月である。作ってつくれるものではない。心と体の全体の最大で最善の表現が笑顔なのだから、体調と精神状態が安定していなければ、笑顔は偽物でしかない。そういうのはいやだからあまり笑顔をみせなかったような気がする。でも今はもう関係ないので、自然にしている。そうするといつのまにか昔に戻ったような感覚になってきた。

心に笑顔をもっているのだから、表の顔の見え方はまあ生まれつきということであきらめよう。

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普通の人

普通の人に戻りたいというようなことをよく聞く。それは主に裕福な層からでてくるようだ。それも貴族とかその上の生まれながらにして自分の人生を選択できないというような人たちである。

今、世の中はエンターテイメントの時代である。情報化の中で流れる芸能人・アイドルは男女関係ないようだ。そうなりたいと本人が思って実現したというよりも、親の夢を子供が実行しているという構図のようだ。それでもいいだろう。それは自由意志に基づくものだから・・・。でもそういかない人たちもおおい。

生まれながらにして決まっている。それでいいのだろうか。己の意思で生きることは、その人生が良くても悪くても、とても素晴らしいことだと思う。自由というものの本質は私にはわからないが、己を感じて、そこでどういうところにいるのか、どうしたいのか。そういうことを考えられる状況が必要だと思う。どんな人にとってもである。

普通の人はそういう意味で、とても特殊な人たちであるかもしれない。

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お笑い芸人

エンターテイナーというのが正しいだろう。私の認識が違っていたようだ。お笑い芸人は、無職の吹きだまりというような印象をずっともっていた。しかし、最近よく売れている男性のスターお笑い芸人は違うようだ。

どちらかというとエリートという流れにいるのかもしれない。機転が利く。利口だということでもある。自分で選んだ人たちがほとんどである。流行を敏感に感じて、自分の感性を信じて下積みをする。そんな徒弟制度のような中で、自分の道を選んだ人たちである。もちろん一握りの人がスターになるのだろう。でも、何か私の抱いていたイメージとは全く違う人たちがいまいるようだ。昔ながらの考えではない新しい意志の持ち主とでもいうのだろうか。

才能があるということは素晴らしいことだ。役者にもなれる。いろいろなことができる。たしかに今の世の中で必要な職業で、もっとも影響力のある仕事かもしれない。政治家にもビジネスにも何でもなれる下地を彼らは学んでいるのだ。そう考えると、普通の学校で学ぶことはいかにもきまりきったものにしか見えない。自分で道を切りひらくことはもちろんであるが、徒弟制度的な中で仕事を得ていく過程ができつつあるようだ。

発表の場も、公平である。客観的であり、基準も単純明快である。面白いかどうかの判定基準。それも大衆の気持ちをつかんでいるかどうかによる。子どもからお年寄りまで・・・。

極めて幅広い。どこにターゲットを絞るのか。その辺も問題になろうし、課題として何を取り上げるかが大きな分かれ道になる。まったく政治家と同じではないか。大統領に俳優がなる。私はそんなバカなと考えていたが、それはまさに大衆の心をどう読むかということにつながっているようだ。

これからは笑顔の中に、またアホを演じている顔の中に何かきらっと光るものが見えないようなさらに高等な演技が要求されるのではないか。天然ボケというのは本当のアホという意味なのだが、はたして演技なのかどうかわからない。

しかし、いい映画でいい役をこなしているお笑い芸人をみると、かれらのアホさは利口さにしか見えない。そこからいろいろとこの社会のことを考えていこうという人たちがでてくるのは当然かもしれない。

地球温暖化、戦争回避、平和構築。地域紛争の除去。地雷などの兵器開発をやめる・・・、すべてお笑い芸人が望むものではないだろう。ということは、お笑い芸がこの世の中を席巻できるような社会がいい世の中だということであろう。そうではないだろうか。

こんなことを想うのは私だけではないはずである。

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