趣味

やりたいこと

趣味。なし。

仕事以外は関心も興味ももちろんない。そんな若者がいっぱいあふれていた。巷は、そんな奴らでいっぱいだった。

競争。

それが、彼らに与えられた課題だ。生まれる前から、もう競争が待っていた。とにかく座る椅子がないのだから仕方がない。普通ではだめなのだ。普通でいいのに、どうしてそこで振り落とされなければいけないのか。なんでもできるのに、どうしてだ。

理不尽だ。

それが私の本心だった。どうして、差別していくのだ。ブルーカラーとホワイトカラー。エリートと常人(イツマデモヒラシャイン)。

なぜだ。

有り余っているからだろうか。つまり要らない人間だったのか。そんな疑問がいつも少年少女たちの子供心をふさいでいた。もっとおおらかにわかりませんとか、これはなぜなんですかとか、いろんなことを子供のときに考えて発表してきたかったのに・・・。

やりたいことはいっぱいあった。

この世の中にあること、すべてが興味の的になる。好奇心が普通にあればだれでもそう想うだろう。趣味の世界とは、限りなく、私たちの好奇心をくすぐるものに違いない。

次にでてくる趣味とはどんなことだろうか。メタボリックシンドローム克服なんていうのがいま老若男女にはやっているが、これも趣味かいな。

でも有名女優のダイエット自慢なんていうのは、つまらない限りだ。だって仕事の一部でしかないだろう。普通の見えないところで当たり前にやるのが、趣味ではないか。

ところで私の趣味はなんだったっけ。まだまだ無趣味のようだ・・・。

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何でもできる・・・

どんなことでもできる。この社会で起きていることなら、そしてほかの人たちがやっていることなら、何でもできる。

そして、そういうこの世の中にあることをすべて体験したい。

でも、もし・・・・、この世のな最後、つまり人類の最期につきあう時代に、もし・・・生まれていたならば、どう想うだろうか。

それだけは、今は考えたくない。いつか私たちの子孫が将来、遠い将来にどんな形で迎えるのか想像もつかないが、もし・・・、あるならば・・・、それはいやだ。

このまま自滅するという道を突き進むなら、それは近い将来になってしまう。それだけは、みんなで阻止しようではないか。それはできるだろう。

でも、自然現象としての宇宙の崩壊の時がもしきたならば、それは仕方のないことだろう。そのとき、もしそこに私たちのだれかが立ち会うことができるなら・・・、どういう気持ちでそこに立つのだろうか。たぶん、もう神になって、どこかの宇宙へと飛んでいくのかもしれない・・・、というぐらいしか想像できない。

何でもできる・・・と思うが、その瞬間だけはいやだ。

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趣味はなんですか・・・

だれもが何かの趣味をもっている。そう決めつけられてしまうと、どうも私はなにもありませんと答えづらくなる。でも、ゴルフとか、カラオケとか、読書とか、旅行とか、ましてや仕事なんていったら、ばかにするなといわれるだろう。

でも、ないんだよな・・・。そんなことで悩むようなことではないだろう・・・。たんにかるく答えればいいんだよ・・・。

だれかが、そう叫んでいるようだ。でも、こだわるんだよな・・・。趣味って、いいとか・・・、悪いとか・・・、ダサイとか・・・、いろいろとその人の性格の代名詞みたいなものではないかと考えると、実に慎重になってしまうのだ。

だから支障のない範囲内で、ええべつに・・・とか答えるのがいつものことだ。心中では、そんなことかんけえねだろう・・・、と思っているのだ。

趣味はなんですか。そうですね・・・、読書です。散歩もします。そして、ぼけっともします。考え事というか、哲学者というか、そういうことも趣味です。

ところで、あなたの考える趣味というのはどんな定義ですか。そう聞いて見ないといけないように思う。

あなたの趣味はなんですか。教えてください。お願いします。どうしても知りたいんです。なぜって、しつこく聞かれたときにどう返事するかを本当は知りたいんです・・・・。

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情報社会を生きるには・・・

多くの情報が飛び交っている。毎日毎日、ルーチンワークのものもあるし、その日特別な情報もある。

それを自分の一日とどう関連付けていくのがいいのか。できるだけ、情報をとらないことではないか。できるだけ情報として受け取らない。流れを見ることだろう。どんな感じでそれらがいま流れているか、この世の中はどう波浪を生んでいるのか。そんな感覚を持つのがいいのではないか。

すべてとらないと満足できないとするなら、残念だが、数か月後にあの世行きであろう。それとも情報の持てないわが身に失望してしまいもぬけのからになるかもしれない。

ざる頭というのが、昔から日本にはある。私はざる頭になにか監視カメラをつけていけばいいのではないかと思う。それは、きわめて打算的なうごきでしかない。

そこで、情報を絞り、己から発信するのだ。とすると、その情報の価値がまったく変わる。自分で創造し発信するのは、必要な情報に限定されるから、そんなに曖昧模糊としたものはいらないのだ。

いろんな可能性があるし、いっぱいあるのは事実だ。でも、そこで本当にできるのは一度にはひとつだと私は考えている。

この情報化社会を生きるには、そこのところの生きざまに大きく関係する。

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まんがとパチンコ  それは昔のおもいでだ・・・

趣味は、子供のころはマンガと答えただろう。ほんとうに好きだった。一時、マンガはこどもの教育に悪いという風評があった。私は泣きたいほど悔しかったのを覚えている。

パチンコが趣味だった。大学生のとき、時間を忘れて少ないお金を使って楽しんでいた。金がなくなればそこで終わりだ。でも、もともとないかねなので、上限を設けていた。でないと都会では生きていけない。ときどき兄貴が一緒になると玉をくれた。こころからうれしかったのを覚えている。

そんな兄貴の趣味はパチンコと競馬と競輪だったようだ。ただ酒はのまなかった。たばこは吸っていた。たばこもいつももらっていた。18もちがうその兄貴は、もう両親のもとへと旅立ってしまった。気のいい兄さんだった・・・。

今の趣味はなんだろうか・・・・。

もう、マンガもパチンコも趣味ではなくなった。興味がすぽっと抜け落ちてしまったのだ。不思議なものだ。あんなに時間を忘れてものめりこんでいたことが、そうではなくなる現実があるのだ。

パチンコはたばこを買うための手段だったようだ。実益を兼ねていた。今はもう吸わないのでそういう意味でも、パチンコをする必要はない。ベンツでも当たるなら、またやるかもしれないということだし、他のこともそういう類のことがあれば・・・。業者も期待できるのではないか。新たな需要掘り起こしのヒントがあるのではないか。

まんがはもう面倒でだめだ。もうついていけない。いつごろだろうかそうなったのは・・・。成長ではなく退化したというのがマンガ文化の拡大からみるとそう言わざるをえないようだ。

でも、どっちにしても興味がなくなったら、そこで趣味は終わりだ・・・・。

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私の探している物差し、それは考え方の物差し

何を測定しようとしているのか。それは、考え方を計ってみようというのである。

もちろん、いい考え方があるし、逆のよくない考え方もある。そして、その中間もあるし、そのまた中間もある。これらはずっと続く。

ボルト選手が私を追い越せない。それは、あの超一流選手が一本指を空に向かってあげても無理だ。私を追い越すことはできない。

ただひとつの条件を彼に与えよう。それは、私を追うときに私との距離を半分ずつ数えて走ってもらうことだ。

でも、私は彼の前に同時スタートなら立てないので、もうひとつ私の1cmあとからついてくることを付け加えなければならない。

考え方のものさしがある。すごいいいシンプルな物差しだ。すごくいいという右側があり、左にとてもいいという物差しなのだ。だから、その間はすべてが、すごくいいというものととてもいいというカテゴリーのものなのだ。

どんな考え方でも、そこに独自性があるかぎり、それはみないい。悪いといるなら、そう批評する人がそういう物差ししかもっていないということだろう。

私もいろいろな物差しをもっているが、まだいろんな形のものがある。そういうものを今自由におおらかに探している。そんなときは、時間の物差しもどこかへいってしまうようだ。

きっと時空をさまよっているのか、自由に飛び回っているのだ。そんなとき、私のこころはどこかへいってもどってこない・・・。

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長生きするには・・・

この世の中で長生きすることは、ほんとうに幸せなことだろうか。

そんな贅沢なことをちょっと思った。なぜって、どうも長生きできる自信がないからだ。だから、自分を慰めるためにそう考えてみたのだ。

でも、生きられて、家族に祝福されて長生きできるなら、それにこしたことはない・・・。そこで何か趣味でもあれば、退屈しないのではないか・・・と思った。

趣味とは、なんだろうか。身体を使うものは限度がある。こころのカテゴリーはどうも面倒くさそうだ。そんなものなくてもいいだろう。

気がついたら、比較的長くいきていた。そんな程度でないと、ながくはいきられないのではないか。そんなちっぽけなことは、忘れてしまうことだ。

そうすれば、長生きできるのではないだろうか・・・。

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自分の心を探る

一番恐いのは、自分のこころである。

なぜならば、私がやっていること、やろうとしていること、考えていることが、すべてわかるからである。

決断するとき、エゴがある。駆け引きもある。本音とたてまえというものもある。みんな分かっている。「そんなちょろいやつかよ、おまえは・・・」と笑われて軽蔑されそうだ。だから時々ではなく、いつも自分のことがあまり好きではないと感じるのだろうか。

同じひとつの人格なのに、二重人格というのであれば、それは仕方がないし、もし、この反復作用がこころの中で起きなかったら、たぶんだれも何もできないのではないか。思惑というものがなければ、・・・。

自分の心理を探るのはちとはずかしい。それは、いままで子供のころからずっと知っているからだ。どんな時にどんな振る舞いをし、あんなときはそんな言い訳がましいこともやってきたし、あるときはしどろもどろでなにもできなかったし、・・・・。つまり、もっとしっかりしろよと叱咤激励されている関係なのだ。

だから、もうひとつの父や母のようでいやなので。好きなのだけれども、大好きなんだけれども、知りすぎているのがいやなのだ。

そんな自分のこころを一番よくしっているのは、さいきんは私自身ではない。私の奥さんが最近は、どうも自分のこころとたち代わったのではないかと思うときがある。そして、おなじようにそんなことがいやだし、大好きでもあるのも、共通しているようだ・・・。

ああ・・・、なんか自分の心理なんて、下手に探るものではないな・・・・。ほんとだな・・・。

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すきなことをやろう

今の若い人たちは多趣味である。いろんなことにチャレンジしている。

最近、サイクリングが盛んだ。若い身体能力の人たちだけではなく、かなりの人たちも多い。確かに自転車競技も盛んだ。男女が同じにできる。子どももできる。そんなところが盛んな理由だろうか。トライアスロンの競技の中での活躍もあると私は思う。

バイクも多い。性能が第一、大きく変化しているだろう。安全性も抜群に増している。ウェアが防護機能をもっている。

マリーンスポーツも盛んだ。とくにスキューバは、若い女性に好評だそうだ。何がそうさせているのか。結構難しいスポーツだ。命の危険性もある。窒素酔いなどもある。

空もある。スカイダイビング。もちろん伝統の野球、サッカー、ソフトボール、なんでもある。すきなことをなんでもやれる世の中になったのだ。

高齢者社会は、この辺で年齢の一時的なバキューム期間を設けなくてはいけないのではないか。農村の畑には紅葉マークの車両ばかりが目立つ。なんとなくバツのわるそうなステッカーの一つだ。

いろいろあるけど、みんなすきなことをいっしょけんめいにやってやろうではないか・・・。

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カヌーつくりへの挑戦

この夏。ひとつもいくつもやりたいことがあるのだ。その一つがカヌーつくりだ。

買えばいいのにといわれそうだ。そうかもしれない。最初の製作では、進水ではなく、浸水もあるらしい。親水のために、心酔してカヌーつくりに挑む。

そんなことが本当にできるかどうかわからない。道具もない。何もない。あるのは、意欲だけだ。いつか、浮かべてやる・・・・。

それだけのイメージでやりとおせるか不安と期待が入り混じっている。

浸水するには完成しなければならない。進水させるにはつくりあげなければならない。楽しみだ。来年か再来年だろうか。今年の夏なんていうのは夢か・・・・。

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今年の夏

今まで何回夏を迎えただろうか。年の数だけだ。それは、海にいった回数と同じではない。今年の夏はすぐにやってくる。

海はいい。

そこで、泳いだり、日焼けをしたりする。くらげの出る前にもっと海を楽しむのだ。泳ぐだけではない。サーフィンもある。ヨットもある。ボートもある。もっといろんな楽しみ方を学ぼうではないか。

この海に親しむことによって、海だけではなく、宇宙空間へもつながる夢が私たちにはいっぱいできるのだ。海とは、それだけではない。時間と空間の縮図のようなものだ。アインシュタインの理論もきっと海にヒントを得ているに違いない。でも、何かつまらない。

今年の夏は、きっといい夏になる。オリンピックも楽しもうではないか。マラソンの野口が二連勝する可能性は大きい。そうなったら、本当に祝福してやろう。

今年の夏は、きっといい夏になる。そして、世界に夢を与えるだろう。

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飯よりも好きなもの

何をおいても私たちは食事をして栄養を取らなければ生きていけない。

1週間どころか、3日間ぐらいで終わりになるのではないか。それは命と同じ価値を持っていると言えよう。食うことで命を維持する。

では、それだけでいいのか。

やはりだめだ。こころのケアがついていかない。

では、どうするのか。それは趣味を持つことだ。それも飯よりも大切だと言えるようなものを持つことだ。そうすれば人生はまた違うものになる。

それで、ひとは変わる。変身である。そんなことができるのか。だれにでもできる。

趣味を持つことで、健康に良いことは、こころが豊かになり余裕が生まれることだろう。そしてあくせくしなくなることだろう。飯よりも好きなことってでもどんなことなのか。

そんなものがあるのか。

やはり仕事だろうか。

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ウェブログ

ウェブログの省略がブログだそうだ。実は私も知らなかった。たしかにログブックというのは航海日誌とかいろいろな記録をさす言葉だ。ウェブのログぶっくという意味だという。

でも、ブログは何なのだろうか。個人が公共に対していろいろと問題のない範囲で公表し公開するものだと私は理解している。個人情報を秘密にするかどうかと問いかけれられる時代である。サービス業に従事する組織の代表者でも公開しない人もいるようだ。どうしてだろうか。いろんな要素があるので、ひとまとめにどうのこうのとコメントするつもりはない。

でも、それでいいのか。これからの社会に貢献しようと考えるならば、個人情報はできるだけ、公にしていかなければならない。それが、当然のことであろう。利害関係から中傷誹謗をうけることもあるだろう。いらぬお節介をせまられても、それはもっと目標に向かって前向きにあるべきだと私は思うので、できるだけ公開する。それには覚悟がいる。飛行機に乗るとか、新幹線に乗るとか、仕事上での乗物に乗ることと同じだ。あることを目的としてやるには、その代償を覚悟していなければやれない。それが条件となる。最低の条件であろう。

情報は興味のないものは、無意味だ。それが公証の役割を果たしたり、その人の覚悟を表現している。それが実は大事なのだと私は考えている。まさにブログはそういうものをまず試験的に乗り越えるための試金石のようだ。そこで公表することの責務と義務を負う。現実で考える材料になるし、それは何よりも自分に対する評価と信頼でもある。

だから、それが決して人気取りとか、セレブのブログである必要はまったくない。どれだけの人が目にするかそれは普通の人にとって一人でも自分以外の人が見てくれているという現実が本当に重いものだと今私は感じている。それは趣味であっても、それだけではないもっと違う覚悟をもたらすものだと私は今痛感している。

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たのしいこと

趣味はなに。えっと、とくにない。

でもあれはそういえるかな。

どんなことだい。うん、忘れた。

なんとなく様にならないのが趣味の質問だ。そんなもの問いに答えるものではない。自分で得意なこととして話すのが自然だ。そうでなければ趣味なんて言えない。

たのしいことが趣味なら、それはとてもいいことだ。ゴルフとか、ヨットとか、まあいろいろあるな。

山登りなんていうのはどうだ。富士山の途中で楽しくなくなって気分が悪くなって、平地にもどったら楽しく思いでにはなったな。だからまた昇るのだろうか。船酔いみたいなものだな。ほかにも楽しいことはいっぱいある。

どんどんやっていこう。できる限りいろんなことをやってみよう。

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どこへいくか

仕事が終わったら・・・。どこへ行こうか・・・。まだ決めていないのだ。

少しもあせっているのか。そんなことはない。まだ決めていないのだ。どっちが大切なのか。遊びと仕事とどっちが・・・。どっちも大切だ。自由は仕事への活力をくれるし、仕事は遊びの軍資金を作ってくれる。どっちもどっちなのだ。

でも少し不埒な行動と考え方ではないか。もっと、言い方に注意した方がいいのではないか。あまり仕事ができないから、暇になってしまう。暇がほしいから懸命に仕事をする。どっちなのだろうか。どっちでもいい。今は、かならずどこかへいく・・・。そう決めている。

おいしい魚を食べにいくか、それとも見たことのないものを見に行くか、それとも・・・。どこへいくか・・・。

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しごとは趣味か

もし、仕事がなかったら・・・。

とても考えられないと思う。趣味ではないのだし、本当はいやいややっているのだという気持ちもある。でも、違う。実際は本当に仕事が日本人はみんな好きなのだ。自分よりも数段好きなやつらが周囲にはうようよいるのだ。

そんな社会で負けてたまるかと叫んでいくには、それ以上に仕事人間になることしかない。でもよく考えると、そんなに好きではなかったような気がする。長くやっていると、趣味なのかどうかわからなくなる。いずれにしても、エキスパートなのだ。もういなくてはこの社会が回らないというような・・・、そんな気分にみんななってしまうのだ。二十代の後半から三十代の前半あたりに、みんなそんな方に変わるようだ。

でも、・・・。今はちがう。勉強する時間が年数が二十代後半にまで伸びている。それまで実業にはつかないひとが多いようだ。専門家といっても研究者とか科学者の類の人種が増えている。それでは、やはり日常の仕事は楽しくないだろう。

おもしろさの中身は自分で考えるしかない。だれのために働くのかなんていうことも、たまには頭の中で反芻しようではないか。公益のために今は働く時代なのだ。そこを理解しないと生き残れない時代になっている。

でも、幅広く社会の考えがなっているので、いろんな人たちがそれぞれ主張していくのがいいと私は思う。できる人だけの社会ではない。マイナスがあってゼロがあってプラスもあるのだ。基準が動けば、すぐにその立場は変化してしまう。

しごとは決して趣味ではないと私は考えている。でもとても大切なものだ。

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ゆめ

夢と希望。どっちの言葉がいいだろう。

どっちもいい。

ゆめは大空を思い出させる。

そして希望はなんだろう。机の前のニュートンのKIBOのイラスト画だ。日本の宇宙観測の実験室だ。宇宙で無重力とかその先の先の私たちの子孫が将来、移住する惑星を探索する必要があるだろう。太陽系は100億年の寿命の半分を超えている。

だから、今、私の頭の中のきぼうは「KIBO」だけ・・・に偏って、固まってしまっている。星出さんのいるあの「KIBO」だ。

だから今何か将来に対して語る時には、「ゆめ」ということばが唯一の大切なものになっている。たしかに広い意味を持つ言葉を何かに使ってしまうのは、想像力をそこで止めてしまうような弊害もある。

でもまあ乗り越えよう。新たなことばをつくろう。

ゆめのあることばを、こころのなかにある夢をいろんな形で表現していこう。そこにきっと創る喜びとか、空想するうれしさ、たのしさがあるはずだ。

洗面器とかたらいの水の話は、太平洋やほかの大洋のメカニズムを簡単に教えてくれるものだ。ゴムひもの模型飛行機の動力は物体の塑性を応用したものだ。揚力は空気とか水とか比重の違いはあれ、いろんなものの中で実際に役立っている。

いま、ヒトの身体が宇宙と同じだという。

そこにある科学は、時空を超えた広さ、大きさだという。可能性をみると、まずいろいろな問題を抱えている私たちの社会がある。そこに一人の人としてみんながいる。病気になったら死ぬ。でも医療が救う。災害がきてすべて崩壊しても、そこから立ち上がり、次の防止に役立てる。建物の強度を考える。バランスをみて社会のために基準を作る。

主役は私たちだ。ゆめはそんな可能性を私たちに届けてくれる言葉だと私は考えている。だれも挫折する。挫折は次の打開策を考える糸口になる。そんないいチャンスは私たちがゆめという言葉をもっているから、訪れるのだ。

ゆめはいつまでも、ゆめではない。ひとつのゆめがつぎのゆめをつくり、そういう繰り返しの中でらせん状に発展していう原動力のようなものだ。そう私は思う。

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すきなこと

あなたの趣味はなんですか。そういう問いは常にある。そのたびに思うのは、おれの趣味ってなんだろうかということである。自問自答しないと出てこない。

そういう答えがどう利用されるかというと、趣味と性格とか、趣味と血液型など・・・、いろいろな推測に使われるようだ。たしかに何の情報もないよりは、それだけでもあった方がわかりやすそうではある。

本当に好きなことが趣味ではないのか。仕事が趣味だと誰も言わないが、あんなに長い時間できるのは好きだからだろう。そうでなければできない。もちろん生活のためという理由はある。家族のためというのも同じだ。趣味はそれ自体が自分のためになっていることなら、つまり好きなことなら、それが仕事であろうが遊びであろうが、趣味と認めていいのではないか。

やりたいことがつまりは好きなことではないか。やりたいことがありすぎて困る。この世の限られた時間ではやりきれないほどある。とすると何かはかない気がする。できないほどいっぱいある。どれかをあきらめなければいけない。取捨選択の余裕というよりも、何を優先してやりたいかという順番もある。

ほんとうに好きなことは後に残しておきたいという気持ちもある。楽しみにとっておくというのは多くの人が考える。でも、それは決まり切ったものではない。一番好きだと思っていたことが終われば、さらにそこから見えるものが違うようになるらしい。だから、あまり気にする必要はない。

今、大事だと思う気持ちがすべてに勝る。

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あなたは何のためにいきているのですか

なぜ、どうして俺はここにいるのか。

そんな疑問を持たない人はいないだろう。おまえは何のためにいきているのか。そんなことを自分に問いかけている自分がいる。ほんの時々なのだが、無性に寂しくなることがある。それはもう先がないという感じではなく、もっとせっぱつまったものである。考えられないのだ。今から、これからのことが自分の身に体感できるかどうかがわからない。いや、興味がなくなるというのだろうか。

そんなときは、もう漆黒の闇の中でもがいているのかと思うと、それはちがう。あきらめでもないし、・・・。もちろん、希望とか夢とかではない、・・・。とにかく、ブラックホールの中に入るとそんな感じがするのではないかというような、・・・。

そんなときは、たぶん何も考えていないだろう。いや、ちがう。必至になって脱出方法を考えているのではないだろうか。いつまでたっても続けているのではないか、・・・。そしてあきらめはしないのではないか、・・・。

何のためにいきるのか。おまえはどうなんだ。そう問いかけてみると、意外と冷静な自分がそこにいて、そんなことは関係ないとでもいうのではないだろうか。自分をあなたはという立場でみるのは、少々おかしいのかもしれない。自分は自分であり続けるしかないのに、ときどき、そこから抜け出してみたくなるのだ。

あなたは何のためにいきているのですか。・・・。

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タイヤ虫

観光道路の山道。休日は観光客の車が多い。平日はサイクリスト、バイクライダー、そしてぶっ飛ばしドライバー、ウォーカー、ウォッチャーなどがいる。

今の時期4月から7月にかけては、鳥たちの繁殖期である。ツグミ、ウグイス、キジ、スズメ、カラス、トンビその他なんでもいる里山だそうだ。

山道だからコンターを使った道路であり、曲がり角が多い。谷を登れば百メートルでもぐるっと迂回する。そこが、ライダーにはいいのだろうか。

曲がり角に黒い2、3センチのものがうごめいている。それがタイヤ虫だとは、はじめは、きづかなかった。何か変な虫がいるなと思っていた。なかなか正体には辿りつかない。推察力のない下手な探偵だ。物証を手にとってみればいいのだが、マムシもいるし、カエルもいる。道路にはいろんな虫の潰された遺骸が残っている。長いものだと数年残っているような感じだ。でもたいていのものは季節の天候の変化で消滅し、きれいに跡形もなくなる。

そういう中にずいぶん消えないものがある。ひとつはマムシの潰された皮であろうか。銀色に光ってすでに道路の舗装の一部になっている。なぜわかるのか。交通事故にあったマムシたちを見ているからである。形が崩れてくるのだが、それは爬虫類の皮がバッグやバンドに使われていることを想えば、理解できることだ。

もうひとつわけのわからないもの。その正体は車のゴムタイヤの破片だった。丸くなって、たぶんノートの上のケシゴムのカスのような製造過程でできあがったものだろう。コーナーでタイヤが擦られてキュンと曲がった形ではげ落ちるのだろう。だから、タイヤ虫だ。

このタイヤ虫の正体を見破るには半年かかった。これがタイヤのゴムだというのは、ほぼ毎日同じところを歩いているウォーカーたちは、例のマムシの皮と同じように、みんな知っている。道路って面白い。あるいても車でも毎日みていると、そこにあるものが毎日目に入ってくる。車では、すぐにどこに何があるかが、頭に浮かぶ。あそこは子供が飛び出してきたところ、その次の角は小さな穴ぼこがある・・・。そんな注意するべきことがすべてわかる。タイヤ虫は、そのうち砂利とともに流される。でも山道ドライバーは愛好者が多い。山頂のパークにはそういういろいろな人たちの交流の場でもある。タイヤ虫はヒトの作ったものだ。消しゴムのかすと同じだ。摩擦すればそこで剥離する。それで、円滑な安全走行を確保してくれているのだ。

タイヤ虫はどんな道路にもあるだろう。とくに曲がり角の吹きだまりには、砂利たちとともにまぎれている。もっと、だれかに気づいてもらいたいのだと私は想う。そのうちタイヤ虫への感謝祭が、メーカーから企画されるという話・・・、はまだ聞いていない。みんな知らないのだ・・・。

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いろいろな趣味

いろんな人たちがいる。仕事をひとまず終えて何をするのか。そんなことを考えたことは一度もなかった。仕事をしないでいること自体があり得ない。そう思っていた。そして何をしたいのかを一番に想った。自分のしたいことができるなら、それは素晴らしいことだ。でもいろいろある。才能もあろう、向き不向きもあろう。

働くことが趣味である。そういうことでないと、長くは勤めていられないのではないか。みんな同じだろう。ここの人の事情というよりは、社会が必要としていることを分担しているのだから、みんなでいやなこともしていかなくてはならない。好きなことだけをやっていればいいというものでもない。

でもその辺はわからない。できるだけ楽な仕事をしていきたいと思うひともいるだろう。体が万全でないのでそれに見合った仕事を選びたいという人もいるだろう。この世の中にはいろんな人がいる。立場によっていろいろである。仕事場によってヒトの能力の発揮が異なるなんてこともあるだろう。同じ人間が同じ仕事を常にできるかというと、違うのだ。そこに条件がでてくるようだ。

いずれにしても強い意志がなければ、自分の望む仕事はできない。仕事を選ぶというのではないが、方向性を求めるのは正しいことだろう。そして誠実な心でやることだろう。そこから、次の段階へと進んでいけるのではないか。同じように趣味も大事なことだ。気楽にいろいろなことを知識として蓄えるのは趣味によることが大きい。

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すなの歩き方

砂の上を歩くのは無駄が多い。エネルギーが歩くという目的に使われないからだ。雪の上と同じだ。踏み固めてあれば、少しは効率が上がるが、普通とは違う。

砂はとてもやっかいだ。

砂は流体だ。水の中をあるくという感覚だろうか。クルーザーは船だが、砂の上を走るのもある。ランドクルーザーだ。惰性をつけて砂上を流れる姿は船と同じだ。だれが命名したのか、実に気の利いたものだ。現実にあっている。体感してみるとよくわかる。

靴下が破れる。それも左足の内側の親指の下のふくらみのところだ。犬のにくきゅうに近いところだ。歩き方が乱れているのだ。砂のうえではどこかに負担がかかる。それが靴下の破れたところだ。

すなの歩き方は、砂の上ということを忘れることだ。いつもと同じと思うのだ。まわりがみんなアラブとかアフリカとかの人たちであって、チノとかコリンとかハポンとか言われても、みんなこの静岡のひとだとおもえばいいのだ。次郎長の生まれ変わりの子孫が歩いていると思えばいいのだ。日本平の頂上からみる富士山のことを思えばいいのだ。そして同じように庄内平野の山すそから見える鳥海山だと思えばいいのだ。それが雪ではなくて砂であっても・・・。

すなの歩き方は日本でも役立つ。どこにも砂浜海岸があるので、どこでも役立つ技だ。とにかく一歩ずつあるくことが大事だ。遅くとも一歩進める。どっちのあしでもいい。水の上をあるける自分を想像すれば、効率は格段の差がある。水の上に比べたら、進んでいなくともすごい早い気分だ・・・。

でも、砂の歩き方はらくだに学ぶのがいいという。というよりもともに旅をするのがいいということらしい。らくだをつれていれば何週間でも砂漠を旅することができると、砂漠の中のオアシスに住む村人が自信ありげに語っていた。

どんなことにでもプロがいる。素人に砂の歩き方を論じる資格はないようだ。でも砂を歩くのは面白い。今夜は大きな砂漠をらくだをつれて旅する夢を見よう。おいてけぼりにならないように横幅のせまい砂漠をえらぼうかな・・・、ちらっとそんなことを考えてしまったのであまり本気ではない。機会があったら現実において挑戦してみよう。

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ものづくり

こどものころは模型飛行機をつくっていた。ゴムでまわるプロペラのついたやつである。あれが結構おもしろいのだ。よく飛ぶやつはバランスがいい。それを調整するのが、腕の見せ所であった。

その後、あまりいろいろなものをつくってはいない。今、何をしたいのだろうかと考えている。あまり思い出さない。でも海に関係したものを作りたいと思っている。それはなんだろうか。まだ具体的なものはない。

でもきっとあと数カ月もしたら何かをつくっているに違いない。きっとそうしているだろう。

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わたしの特技

普通のことである。でもうちの奥さんは嫌がるようだ。それは、じつはたわいのないことである。私は休みの時にぼんやりとしてテレビをみる。それは何でもいいのだ。どんなものでもいいのだが、奥さんが嫌がるのはドラマである。何がどうなのかについて触れていない・・・。

それは、ドラマを途中からみても終わりの方でも前でも、結論を見ないで終わっても平気なのだ。それで私自身は意味のわかる、ストーリのわかるところまで自分で推論しているから、それで面白いし、その中に入り込んでいる。

それが、わからないという。だから遠慮してだれかがいるときはそのままぼけっとして、いるだけである。そんなすっとどのドラマにもいつでもどこでも入っていけるのが、私の特技だ。それは、現実でも同じだ。どこの土地でも最初は違和感があるもののすぐに慣れてしまう。もちろん個人の食べ物の好き嫌いとかいうのは別問題であるし、いやなものは断ることにしている。

だから、いざホームへ帰るというときに、またなじめるのかどうか少し不安になるのだ。でもそれも同じですぐに元へ戻るようだ。へんな心配がときどきでてくるのは、いろいろと想像しているからかもしれない。どこへいっても変わらないのは、イヌ恐怖症である。子どもの頃に学校から自転車で帰る時、お寺の近くの道路で追っかけてきた犬にかまれたのだ。そのショックは自転車なら大丈夫という聖域をかみ砕いたのだ。外傷というものはとくになく、ズボンの上から触った程度だったのだったが、私はそれ以来、イヌを見たらどんな時でも迂回する。そして知らない土地では、放し飼いのイヌがいるところ、とくに田舎の人通りの少ないところは絶対に一人歩きは避ける。

これは、事前に危険を察知するという訓練になっているようだ。リスマネが得意なのはこのおかげかもしれない。いろいろなリスクを想定して方針を決めて対策を立てる。そういう中から、本当に犬にかまれるようなことがおきたら、次はクライシス対策の実行だ。実際に起きているのは現実であり、受け入れることだ。食べ物の好き嫌いも現実のものだし、人に好感を抱くのも現実だ。犬にかまれることを想定するのは、それを現実としては避けるためだ。心の準備をすることだ。子どもが道路にいたらスピードを緩めるか停止するのもその一つだ。海の中を見たいと思ったら、安全のメカニズムを知ることだ。窒素が血液中に吸収されるのだから、その楽しさは安全とのトレードオフである。

最近ぼーっとしているようだ。どうも私の特技がもうひとつ増えたのかもしれない。それが新たな体験なら大歓迎だ。どんどん新しいことを経験していこう。それが、脳の活性化につながる。だれにとっても、老若男女にかかわらず、いつでも今が一番若いのだから。

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趣味がなにか

あなたのご趣味はどんなことですか。そう問われたらどう答えるだろうか。その時々で無理やり答えるのではないか。つまり、きまったものはないのだ。そもそも他人にその人の趣味がどうのこうのと聞かれる筋合いはないのだ。どうしてそんなことを尋ねるひとがいるのか私にはわからない。本当に他人に言えないような趣味をもっていてもそんなことは誰も答えはしないのだ。ではどうしてそんな質問をするのか。

わからない。単に気まずさを避けるためのしぐさかもしれない。まあいい。でも結婚する相手の趣味はぜひ知っておきたいものだ。そのほかの人のものは興味がない。だが、自分が聞かれたらどうする。私が思っているようなことを彼女も考えているなら、どうなのだろうか。答えようがない。うやむやにするしかない。そうするとどうも煮え切らない人だとか決断のない人だとか言われて嫌われてしまうのではないか。そんなことをつい考えてしまう。

趣味が何かは問題ではない。ほとんどの人は仕事が趣味なのだ。または仕事に趣味をもちこんでいるのだ。だからどんなお仕事ですかと聞くだけでいいのではないか。そして年を重ねるとなかなか趣味というのは踏ん切りがつかないものだ。できないという暗示にかかる。それは仕事を趣味と思っていないのだ。本当の趣味は仕事だということを忘れているのだ。そして答える。なんの趣味もありません。それが仕事を趣味にしている人の言い方だ。

趣味のないことが何か悪いことのように考える必要はない。仕事が趣味なのだから、そこでやっていることがつまりは趣味なのだ。車の販売をやっているセールスマンなら、車が趣味なのだし、売ることが趣味なのだ。人と対話することが趣味なのだ。

だからどうだというのではない。だからそうだというのだ。何を言っているかわからない。どんなことにも文句を言う人はそれが趣味なのだ。いろんなことに口をはさむのも趣味の一つだろう。趣味っていいものだろうか。必要なものだというのは、仕事を趣味というならわかる。そしてどうも楽しそうな気がする。仕事をすること、つまり趣味をすること。

海の上でぶつかる。衝突事故がある。大きな船と小さな船でどちらが勝つのか。大きくて丈夫な頑丈な船体の方が勝つ。つまり浮かんでいる。一方は沈むことになる。命を落とすことになる。どうして繰り返し海難が起こるのか。海難事故の遺児についてこの間思ったばかりである。どうしてそうなるのか。仕事を趣味にしているのなら、それは趣味がプロなのだから、どうして事故を防止するか。人はサボルし、居眠りもするし、不注意にもなるのだ。それらが事故につながらないようにするヒューマンエラー防止の措置はいくらでもあるのだ。やはり、道路に信号機があり、法律にしたがって、信号を見てあるいているのがいけないのではないか。人は弱さを見つけると攻撃してくるものなのだが、日本人は平和に慣れてしまって、法律に従って行動しているだけのような気がする。それをだれもとがめないのは義務を果たしているからか・・・。そんなひ弱な社会か・・・。

道路を歩くとき、交通法規に違反しないようにする。酒気帯び運転は法律にしたがってしない。でもどこか違うのではないか。義務を守るのは当たり前、責務を果たすことを忘れている。人社会での責務は人間としてやるべきことをやることである。法律に従うことだけではない。小型漁船や幼児は原子爆弾を積んだ物体とみるならだれもむやみには近づけないだろう。少なくとも必要以上の注意を払う。でも法規にしたって緑色をみたら進めばいいというのではだめだろう。相手が意図的に灯火の色彩を替えていたらどうなるのか。おかしいことになる。そんなありえないことを見抜くのが人ではないか。ヒューマンエラーはあるのだ。それを防ぐのは他の動物たちではなく人間自身ではないか。

趣味が高じて仕事となるのではなくすきだからこそ、仕事を趣味にしているのだ。そういう人が私はほとんどだと思う。生活を維持するにはそれなりの覚悟がいる。趣味でなければ続かないと私は思う。そして好奇心が興味をひき、趣のある味をだす人生になるのだ。趣味が何か。私は好奇心を元にした仕事と趣にしている。だから、趣味がなにかは興味がない。

なんでこういう詮索をしたのだろうか。

他の人の趣味に対する答えが違うというのを確認したかったからではないのか。自問自答してみる。当分趣味には触れないことにする。

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ゴルフはおもしろいか

趣味はなんですか。とくにありません。そんな受け答えがつい最近まであった。それでゴルフを趣味にしている人にいろいろと聞いてみたいと思った。

ゴルフって結構、偏った運動ではないだろうか。たしかに歩くことはよいだろう。体をひねるのは野球やソフトボールのバッティングより無理しているのではないか。それで、健康を兼ねてできるスポーツに入るのだろうか。すこし疑問だ。これからどの程度の期間できるのだろうか。個人差が当然大きいと思うのだが、どうだろうか。あし、こし、かた、関節などが痛むのではないか。いや、趣味を始めようというときにいろいろと難癖をつけるのは、あまり興味がないからではないか。好きなことはだまってやるだろう。

砂地でのゴルフもある。ゲートボールとか、同じようなスポーツで高齢者向けのものがある。どっちがどっちなのだろうか。これも言い訳をしてこのスポーツを非難しているようなのでやはり、あまり乗り気ではないのだろうか。

ゴルフは面白いですか。百人に聞いてみたいものだ。でもそれが自分が趣味としてやろうとするときにとる行動だろうか。

まあ、いろいろといちゃもんつけてみればいい。でも趣味にしたいんだろうから。

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好みの雰囲気

どんな雰囲気が嫌いか。どんなことが我慢できないか。どんな時に逃げ出したいか。どんな時に・・・。いろいろといやなことを想定してみると、私はまず道路で犬が放し飼いにされていたら、回り道をする。どうしようもないときは、どうにもならない。恐怖に襲われる。犬にかまれる・・・。そう確信してしまう。だから、それに触発されたように犬もかみついてくる。

でも、時には人通りが多いときは、確率が減るのでそのまま目をつむって通り過ぎることもある。そんなときは胸の鼓動が激しくなる。これは私にとってとても大きな苦難である。

好みの雰囲気というのは、今あげたようなことをのぞいたものであろう。それは各自違うのでなんとも言えないが、いい雰囲気も確かにある。そして、いやな雰囲気でもそれに慣れる過程を想像してみるのもいいかもしれない。かなり珍しい経験になるのではないか。

同じ状況でも視点を変えることによってまったく違う反応が自分自身に起きるのは間違いない。そうすれば目標も明確になり、展望が開けるかもしれない。でも、食べ物はだめである。嫌いなものはどうしても無理だ。でも、同じようにためしてみる価値はあるかもしれない。

でもだめなものはだめだ。それでいい。それが好みの雰囲気なのではないだろうか。

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趣味と仕事

とかくどっちがどっちかわからない。好きだから選んだ仕事。そんなとき趣味はなにかと問われて、いまやっている仕事と答える。

そんな人が大勢いるようだ。私は好きなことをやりたいと思い、そういうことを選んだ。しかし、実際に仕事となると報酬に見合う成果をあげなければ、意味がない。ただ仕事は組織ですることが多く、いろいろな関係者の支援・助力が必要となる。したがって、好きなことだけをやっていられる環境にはない。

そこで、どうするか。企業には同じことを考えている人たちがいる。そこで競争力をつけないと希望の仕事はできないことになる。それが、実はいいのだ。競争がない世界はとてもつまらない。そこにあるのは自分との競争だけかもしれない。そして最終的には自分との競争にはみんな負けることが決まっている。他人との競い合いのほうが楽しいし、やりがいがある。ということは、趣味を仕事にはできないということだ。

勘違いをしてしまったようだ。でも、そこでくじけてはいけない。そういう環境を探し、自分に打ち勝つ力を手に入れよう。そのためには、TQMが大事になる。品質・経緯・事実・人間性というこれらの要素をどう認識して物事を考えていくかであろう。

人生そのものが趣味だという人もいるだろう。生まれつき、そういうオーラがあるといわれる人もいるだろう。そして、何もない人がほとんだから、そういう無から気兼ねなしに、何かを創造するのが、本当は楽しいはずだ。一番の楽しさを才能ある人は失っているのだからかわいそうでもある。いろんな趣味を楽しむ姿勢が大事ではないか。それは競争ではなくてできないことができるようになるだけで、うれしいものだ。できないことがおおければそれだけ多くの楽しみがあるといえよう。

さあ、仕事をしよう。

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魚の飼育

金魚から始めようかと思う。でもかなり難しそうだ。しっかりとおさらいをしてからでないといけないだろうと思いながら、まだ、手をつけていない。

水槽は買った。一ヶ月半ぐらい前に買ってある。まだ中には底に敷く石や砂利などもいれていない。とりあえず水の循環をさせている。水温は16度ぐらいに維持するのだが、気温の変化で左右される。まあサーモスタットが入っているのでそう大きな変化はないだろうが、時々電源をきる必要があるだろうから、別の水温計をいれておいた方がいいかもしれない。

海水魚を飼育したいのだが、その前にやはり金魚だろう。めだかは面倒そうだ。水槽でかなりの水量がある。水をまとめて扱うのは大変なことだと改めて思う。でも面白いとも思う。そういえば昔の少し大きなうちには庭園があり必ず池があった。そこには当時はなんとも思わなかったが、いろいろな鯉が泳いでいた。それが多分自慢だったのだろうと思う。だから家を建てる時にはどんな風に池に水を引くかを考える必要があっただろう。

大阪水族館のジンベーざめのカイ君のようなものを個人で飼育できる人はいないだろうが、自然を一部切り取って身近におきたいというのは、私たちに共通した願望かもしれない。こういうのは仕事ではなく趣味という領域でやるのが一番だと思う。

そうでなければ飼育している魚たちに仕事をしてもらわなければならない。採算がとれないだろうから、仕事にはならない。本当は自然の中に人間が入っていって見る、見させてもらうのが一番だろう。水槽でも自然の海の中でも、観察することは楽しいことだ。新しい発見がなくとも、それはそのつど、楽しさを感じさせてくれるものだ。

さて、いつから金魚を飼おうか。どんな種類にしようか思い悩むところだが、できるだけ手のかからないシンプルな種類にしようと思う。

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ウォーキング

単に歩くだけ。ウォーキングというと何か肩や肘を振って形に従って歩かなければならないという気がする。でも、なかなか難しい。歩くことがこんなに難しいとは今まで思わなかった。そしてこんなに楽しいとも考えなかった。

時間がないと歩くことはできない。それはその時に体調によるのだが、どんどん歩きたくなるときがあるからだ。逆に決まったコースを季節を感じながら通るのもいいと思う。困ったことは、歩きながら考えることもあるし、足の裏からいいアイデアが浮かんでくることもある。刺激するつぼが確かに足のウラにあるようだ。

おなかの調子が悪くなるとこれは困る。コースはしっかりと把握していかなければ困ったことになる。山道コースなら、あまり大きな問題はないかもしれないが、プライドもある。街中を歩く分には、いろいろな施設がある。公共的なところはもちろん公園や市役所とか公民館などは安心できるコースになるだろう。

知らない土地で散歩するのは、迷うことがあるので大変だ。とくにランドマークのない所や見えないところでは迷う確率が高い。南太平洋のマーシャル諸島の離島にいったとき、日本軍の昔の滑走路が十字にきってあり、島を4等分に分けているのだが、もちろんそのごく一部しかセスナ機は使っていないので、そのほかは森の中である。午後遅く到着したのだが、まだ陽が高いと思い海岸を歩いていたら結構な距離を移動したようで、回りが暗くなってきた。急いで戻ろうと島の中に入ったら、私の思惑と違い、別の方角に動いてしまったようだ。近づくはずが遠ざかるのでおかしいと思いながらとにかく昔の使っていない滑走路の一部に出くわした。そこから、今夜の寝る場所である島の診療所を目指して帰ることにした。夕暮れ時はまだ電気をつけないことが多いので、夕食の準備の煙とか、子供や犬・猫の動きに帰るところを見つけるしかない。

まあだめならどこかで野宿して朝方さがせばいいと思いつつ、島の犬たちは結構人に慣れていないのではないか。昼も夜も動物は放し飼いだから、生活する条件という点で人も動物も同じ閉鎖空間に暮らしているのだから、むやみに襲ったりはしないだろうと自分を納得させて、とにかく帰りたいと必至になって滑走路をまっすぐにあるいてみた。ようやくセスナ機がつかっている部分が見つかった。

ひと安心である。

陸の上はまだいい。海の上だったらどうなのだろうか。太平洋の真ん中にある小さなキリバスという島国の離島の漁民は豪州付近まで漂流することがあるらしい。ヤシの葉の三角帽子を被り、勇敢な姿は頼もしい気がする。でも漂流したら助かるのはほんの少しの確率でしかない。飲み水がなくなるのが一番つらいだろう。EPIRBはどんな小さな舟にも沖合にでるものには持たせるのが当然だろう。

いろいろな土地を歩いてみたいと思う。想像するだけで楽しい。いままで見たことのない暮らしを眺められるのもいい。ただあまり異端視されないように、昔からこの土地にいるような雰囲気であるいていかなければならない。そんなとき、子どもたちは気楽だが結構厳しい純粋な質問をされたりするので、その点は要注意だ。子どもたちはどこでもあまりかわらない。しがらみがないのかもしれない。

あるく速度でみる周りの景色は、車の中からみるものとは違う。怖い犬が急に現れる恐怖もある(犬に恐怖感を抱いている人はそういうことを忘れない方がいいだろう)。野良犬で弱弱しそうなら、ひと安心だが、そういうのが狂犬病だったり、心がすさんでいるかもしれないのでそれも用心・用心。

単にあるくことが一番楽しいと私は感じている。でもなかないそういう時というのはない。何かいつの間にか考えていたりする。それはそれでいい。

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仕事と趣味

どんなに否定しようとも、仕事と趣味というのは深い関係がある。

あなたは一番何をしたいのですか。これは趣味でも仕事でもどっちという制約をつけない質問である。そんなとき、どんな答えをだすだろうか。たぶんすぐには答えられないだろうし、答えないだろう。もちろん、今の年齢とか経験とかに関係なく考えるのがいい。

新たに挑戦するにはどんなことがあるのだろうか。なんでもできるとは思わないし、そんなにいろんなことをやりたいとも思わない。私の場合はそうである。何か絞り込んでこれなら自分の時間を優先して、自分を忘れて(これは困る・・・)やれるようなことが本当にあるのだろうか。そんなものはありはしない。そう言える人もいるだろう。でも他の人に強制するものでもない。

ひとつの分野で大成した人が、ちがう分野に進む。これが私はいいのではないかと考えている。実はあるパターンがある。成功するための秘訣というものである。自信をもってやること、やり遂げることがその秘訣である。違うかもしれない。でもそれは偶然そうなったとかいういいわけであり、やり遂げるにはそれなりの運も不運も必要である。あれに失敗したから次にいけたという例はいくらでもある。最短で進もうという気持ちから周り道でもいい、確度は低いがやってみよう。そんな試行錯誤が大切だと思う。

趣味も仕事も同じ人生の時間を使うものであり、そこに差はない。あるとすれば、生活のためといういいわけであろう。とにかく、ちょっと今風邪をひいてて元気がないのだが、はつらつとするよりは何か答えのない問題に取り組むのがいいのではないか。答えを出したとしてもそれは大きく方向をはき違えているかもしれない。だから仕事でも趣味でもいろいろな答えを見つけていくことだろう。どれが一番いい答えかがなんとなくわかるときがくるだろう。

でも単刀直入に結果のでるスポーツなんかは趣味としてはいい。仕事としてもいいのだがこれは生来の才能が左右する。そんなわけでスポーツはなんとなく仕事にするのは最初から諦めている人が多いのではないだろうか。でも選手になる必要はないとか、選手を育成したり、支援するというのはいい仕事だろう。そして趣味としての一流選手のプレイも見られるので最高だ・・・。

才能があり、趣味とか仕事とか関係ないのが天才であり、そのために生まれてきた人たちのことをいうのだろう。必ずいるのがそういう人たちである。一流と言われる人は心も身体も優れている。名曲とか名画とか、国宝とか。人間国宝とか。大工さん。漁師さん。猟師さん(今は少ないが)。農業者(どうして農師と言わないのだろう)。いっぱいいる。そんな懸命にやっている天才と思われる人たちを見ると私もああなりたいと思う。

そこで大事なのが、そういう力を集約することである。先端をとがらす。100個やりたいものがあったら、10個ぐらいに減らし、ある時、その瞬間は1個にするのだ。そうすれば必ずできる。10000のポテンシャルを持つ天才が100のことをこなすのに要するエネルギーと同じに普通の人が100のものを1個にすれば天才と同じことができる。もちろん、天才が1に絞ってきたらその答えはすごいものになる。国家プロジェクトでは不可欠な才能であろう。

趣味が先か、仕事が先か。どっちでもいいのだ。その人にあった道を選べばいい。才能があってもなくても好きでなければ趣味にはならない。そこに万人の自由な選択の価値があると私は思う。

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ジプニィ

ジプニィって聞いたことがない。今までフィリピンにいったことがなかった。初めていった。へんな乗り物だ。でもすごい数が走っている。キンキラキンである。

でも、印象深い乗り物だ。きれな飾りを精いっぱいつけている。日本の昔のお祭りのようだ。いつもお祭りなのかもしれない。でもほとんどは敬虔なクリスチャンである。でもラテン系の陽気さを持っている。どうしてそんなに明るいのか。生来のものだという人もいる。私に異論はない。

日本のバイクが公共の乗りものに利用されている。なんでもやの乗り物だ。小さなバイクのサイドフレーム(サイドカー?)に20人ぐらいのっているような錯覚をもった。10人だろうか。

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とぎれとぎれのホビー

ちょっとやって途切れる。それが私のホビーだ。決していやになるのではない。何故か、続く環境が変わる。

だから、懸命になってできるときにやるのかも知れない。できない時は仕方がない。当たり前である。それでも、何か不安になる。趣味とは好きなことなのだ。改めて考えることも必要ない。嫌いになることもない。

最近、仕事より面白いと感じたのは、小型ボートである。海の上は結構厳しい。気がつかないことが多い。沿岸で小型船に乗るというのは学生の頃には考えるのもしなかった。今、漁業が面白い。だれかが言った。私もそう思う。魚の顔は良く見るとかわいい。グロテスクでもしぐさがそうなる。魚が何を考えているか。人とは違う魚の道を全うしようとしているのだろう。

水槽で魚の動きを見たい。観察したい。水の中での動きの法則などを知りたい。少し時間をおいて検討しよう。生き物は面倒と思うのは家族は言えないだろう。嫌いな犬をうちの中で飼っている。意外といいものだ。嫌いな犬は今うちの中で友達みたいなものだ。

よその犬はまだ怖い。小さいころに噛みつかれたトラウマがある。私は自転車で学校から帰る時だった。走って食いついてきた。パニックである。それ以来、路上で犬にあうと回り道をする。あってからでは遅いので、見えたら道を変える。

ダイビングが途切れている。とぎれとぎれのホビーの一つか。でもみんなそのようだ。冬は日本では寒い。ドライスーツがあると言っても寒い。寒い海や賑やかでない魚の様子がいいという人も多い。世の中多様であり、ひとの行動も多面的である。

新しいホビーを見つけよう。今、漁業が面白い。包丁を持たない家庭人。男も女もそうらしい。それでも賑わっている調理教室。社会が多面化しているのだろうか。多様とは言い切れない。何か目的のはっきりしない方向に人類が向かっているのかも・・・・。

アルカイダは宇宙からやってきたのだという人がいるかもしれない。9.11を11.9と勘違いしていた。私にはそういう友達の友達はいない。昔は赤軍派が友達の友達ではなく、すぐ近くにいた。みんな若くて屈託のないテロリストだったのだ。ほんの小さなホビーが一生檻の中という制約を課すこともある。

ホビーはとぎれとぎれで考えながら休みながらにしていい。そういうものがホビーだと私は思う。

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