そんなのわかるのが不思議。
音符で音程が分かる。
そんなことだれがどうやってきめた。
あのクラシックといわれる音楽はかなり複雑ではないか。なんとかシンフォニィとかってだれかが創ったのだろう。どうやって頭にイメージできたのだろうか。
音符の読めないボクには、まるで遠い世界の見知らぬ言葉でしかない。
でも、奏でられた音はこことよさを与えたりしているのはわかる。ときにやさしく、時に激しく私たちを勇気づけたりもする。
不思議な音符の世界があるものだ。
読めなくても、音楽は聴ける・・・。
どんな組織にも、ボトルネックがある。
決まりはどうか。
ひとはどうか。
そして、基盤はどうか。
だれかがそういうもの、大切な要素を網羅した組織をつくったのだ。
ただ、時間が経つと、ほころびがでる。
頑丈なトンネルも長年の外ガスと振動で補強を必要とするようになるのだ。
だれが保守点検を行い、補修していくのか。
持続させることも、ボトルネックのひとつだ。
新たにすべきものは、そうする。それが持続ということだ。
破壊するべきものは、そうする。それが維持ということだ。
ほしいだろう。
領土がごり押しでとれるなら、どこでもそうする。
軍事力の比較で決まるなら、みんなそうする。
だが、国家はそこに住むひとたちが主権者なのだってことを忘れている。
強ければいいというものではない。
やさしさもひとの特別なものだ。
いたわりもある。
東京、イスタンブール、マドリード。
五輪誘致合戦のさなかにある。
猪瀬都知事は、しぶしぶNYTに誤った。訂正をした。謝罪をした。
トルコは反応した。
日本のエラーを見逃すことなく、問題視した。
世間は注目した。
これは一大事だ。
オリンピックの精神は参加することに意義を見出すと説いている。
だから、関係者はどうするかと言えば、競い合う相手に関しての非難は避ける。
そこにスポーツマンシップのようなものがある。
トルコは、とくに責任追及はしないことを世間にアピールできた。
かなりの好感度だろうか。
どうなんだろうか。
最近は事前の仕掛けも巧妙になってきている。
つい口をすべらすというよりは、格好の餌食として狙われていたってことだろう。
かなり頑張っているようだ。
奥さまにうちの亭主がどんなことができるかしら・・・とか言われながら、奥さまの手のひらで踊ってみせているのだろうか。
そんなこんなに関係なく国難が襲っている。国家のリーダーとしての総理の立場は、尋常ではないだろう。でも、そこに懸命になって尽力している姿が見える。
どんなに才能のある人物でも困難なときには罵詈雑言が浴びせられることもある。一番汚い言葉はなんだろうか。
「あいつだけは気に入らない・・・」というような個人攻撃である。そして、いわゆる士気を低下させるという常とう手段だろうか。褒め殺しなんていうのも数年前?にあったなぁー。
今日は総理の動きが気になった。運動不足だろうか。
この間も被災地の視察で・・・のことだ。
TVのニュース映像で見る限りだが、気になるのは、ヘリから降りるときの膝の関節のうごきがちょっとぎこちないのだ。たぶん長く座っていたので、エコノミィー症候群のまねのようなものかもしれない・・・。
だが、ひざを一年前に急にひねって痛めた経験からすると、どうも人ごととは思えないのだ。足腰は大事にしてもらいたい。いつまでもはつらつとしていてもらいたい。
一国のリーダー、それも緊急時のトップなのだから、みんなで支援するから、体調を保持して元気に喝破してほしいものだ。もちろん「強い意志と誠実なこころ」を持ってこの難事に的確に正々堂々と対処してほしいのだ・・・。
STRONG MIND WITH HONEST HEART !!!!
よのなかをわたるのがとてもうまいともがいる。
ひとがらがいいのだという。
ちょうしがいいのだとおもうのはおれだけか。
そういうおまえはへたくそのだいひょうだろうか。
おれもおまえもおなじようだ。そういったら、あんたほどへたではないといわれてがっくりした。
そうか、おれがいちばんだめなのか。
あらためてなっとくした。
だいたいよわたりってなにかわかっていないのだから、それでいいのだ。
おれはおれですきなしごとをたのしんでいるのだから、それがよわたりのいちばんのとくさくだということをおれはおやじにおしえられてきたのだから、そしてそれがそのとおりだとなっとくしているのだ。
だからよわたりのへたくそなのは、それがうまいとごうごしているやつだと、おれはずっとしんじているのだ。
よわたりのへたなやつは、このよのなかにはめずらしいのだ。
へただとよわたりのやくにたつうそをついているだけなのだ・・・。
なんとよわたりのうまいてんさいなのだろうか。そんなやつらがこのよのなかをうごかしているのだろうか。
いや、ほんとはへたなやつがいて、そこでさはいしているのだろう・・・。
巷で知られる学習法はいっぱいある。
そんな中で、どれも身につかない。なぜ、おれだけ身につけられないのだろうか・・・。そんな風にみんなが自分だけと想っている。
そんな中で、個人的な感想といいながらコマーシャルで流されるのは、素晴らしい学習効果といううたい文句だ。
みんな苦労しているのだ。読書法も、記憶術も、接客法も、みんな大事だ。
それらは、ヒトを介して会得するもの、書籍で手に入れるもの、自己鍛練でのみ獲得可能なものなどいろいろあるかもしれない。
メンタルトレーニング・・・。
これがすべての学習法のキーワードだという。
書籍を読破することで、疑似体験ができる。イメージを知ることができる。それは古代でも現代でも変わりはしない。人間の能力自体は、もうその当時からあまり変化はないか、まったく変化はないのだ。
イメージを描くことができれば、そこでいろいろな応用がきくのだ。
それがメンタルトレーニングなのだ。
究極の学習法は、そういうイメージをミュージックに詰め込むことだという。クラシック音楽の本来の目的は、そういう人間の脳科学を応用したものだったのかもしれない。
一日、数時間、好きな音楽を聴くことで、数学も物理も化学も文学も歴史もイメージの中に取り込まれるのだ・・・・。
そこにはほんのちょっとの細工があり、脳の仕組みと学習の仕組みをうまく融合させていくことでできるのだ・・・。
究極の学習法があれば、3歳ぐらいでもうすべての世界を知りつくすことが可能になる。でも、おむつがとれないとか、こころと身体の成長が整わなければ、頭でっかちの赤ちゃんが大勢いるということになる。
きっとそういう世界では、3歳の理学博士とか、宇宙理論の学者とか、経済学の大家とか、シナリオライターとか、すごい子供たちがいっぱいでてくるのだろう。
成人年齢とか選挙権とかはどうしたらいい・・・。
究極の学習法の弊害が大きすぎるようだ。だから、もう少し、黙ってこのままにしておくことにするのが最善だろう・・・。そう結論する。
ちょっと長いタイトルをつけた。
ある資格試験に挑戦していたころ、長い間受からない・・・。
受かった年にやったことがある。
それは、モーツアルトの曲を聴きながら、対策することだった。
クラシックは、この平凡な脳に直接語りかけてくるのだろうか。とくに、モーツアルトが効くというのを例の脳科学者の茂木先生が言っているのだ。
それは、ほんとうだった。嘘みたいなボンクラに奇跡を起こしたのだ。
それは、当然、脳細胞に働きかけているのであって、私心で焦っているこの俺にではないのだから、客観して傍観していればいいのだ。
コツはとくに自分を意識しないこと、単純にモーツアルトを聴くことだけだ。
そうすると不思議に、モーツアルトが資格取得準備に効くと思いこんで、結果として、・・・。
結果として「モーツアルトはこころを穏やかにさせて効率アップにつながる」という事実にたどりつくのであるらしい・・・。
韻律。俳句の世界。詩ともいう。
リズム。しなやかに心にしみこむような♪たちとでもいうのだろうか。心に響けば、からだが共鳴するのだろうか。
メロディー。どこかであったことのあるうた。そんなものがメロディーではないだろうか。
想いを馳せるとき、どこからともなく、音の波が見えるのだ。
それらは、自由にこの空間を漂っているように思うのだ。
音楽とは、私たちの魂に語りかける手段のようだ。だから、次次にいろいろな音楽がニーズにこたえようとしてあらわれてくるのだ。
時間と空間を超えた音の波がこの宇宙を飛び回っているのか、流れているのか、・・・。
目をつむると、ひとりでに、そんな光景を想い浮かべてしまう。
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