私たちの社会にはいつも音楽がある。喜怒哀楽という人の心の動きをうまくあらわしている。感情をうまく表現することは難しいものだが、すぐに爆発という形を取らずに、音楽というものにその感情を移転することを先祖は考えたようだ。
そういう時はこうしたらいい。そんなことを地域祭りに残したらい、個々の生活の区切りをつけるために冠婚葬祭という仕組みを残している。行く人来る人という具合にこの世の中の進展を眺めている。
最近はそういう慣習をあまり気にしないようになっている。個々の生活だけではなく、地域社会の祭りにしても、風化しつつあるのではないか。核家族化という言葉叫ばれて久しいが、この弊害がいま現れているようだ。動いているときは何も見えなかった。家族を養うためという大義名分を軽んじるわけではないが、それしかなかった。懸命になってやることでしかできない。家族の生活のためのお金はやはり汗水流して稼いでいくのがいいと私は今でもその思いは変わらない。たとえ100円のお金でも、額に汗して働いていただいたものは社会に還元するときにもうまく回っていくお金だと私は思う。
リズムとハーモニイがある。リズムで生きることに勢いを持たせていくことができそうだ。でもこの私たちの社会が人間の社会として成立していくには、そこにハーモニイが必要だ。今私たちはこのハーモニイを学んでいる。一朝一夕にはできないものかもしれない。
生活のハーモニイとは具体的にどんなことかというと、それは衣食住という日々の生活のなかで、必要なものを無駄にせず、大切にすることである。リサイクル社会として、この私たちの空間でほかに負の影響を与えないようにしていくことである。それが自然なのか、それとも使い捨て社会が自然なのかは、ヒトの存在が自然なのかどうか、一時的にこの地球上に出現した生物だけなのかもしれないし、それはわからない。
ただ、その時にヒトという生物が何を考えて存在していたのかという基本的なコンセプトが見つかるものがあるのではないか。でもヒトが神によって創られてものだとか、存在させられたものだというのでは、何か私たちのDNAに製造年月日と賞味期限が記されていなければならないだろう。そうではなく自然の中で必然的に出現してきたのであれば、これからこの社会をうまく自律的に発展させていく必要があろう。それが何かはわからないが試されているのではないか。滅亡の道をもともと歩いているというひともいる。いや永遠に生存するというひともいるだろう。でも乗っている船である地球が病気になってしまうとか耐久年数が終わるとか太陽系が百億年の命を落とすまでの半分のところにあるともいう。
私たち人類のリズムとハーモニイはこの段階でもうまく機能していけるのではないかと私は最近思う。それはなぜか。どんな時でも何か可能性がやはりある。人としていきていること自体がすごいこなのだと思う。生まれてきて人の社会のリズムを受けてハーモニイの中に生きている。それは、スーパーマンに生まれたとしても同じではないか。ほんの少し大気圏の上までいける能力をもって、他の人の百倍の速さで移動できたとしても、空を自由に飛べたとしても、この社会の不正を終わらせるための永遠の戦いに勝ち続けたとしても、悪役の登場がなくなればそこで役割は終わるのだ。
その後、どうするのだろうか。永遠の社会悪を保存し継続することでしか伝統を維持できない。とすると正義も悪もない。単なる伝統行事にしか見えない。そんなことであっていいのだろうか。どんな役割を演じるのかを社会は個々の人に要求しているのだろうか。どうも私のリズムとハーモニイも少し変調しているかもしれない。
現実に戻ろう。そこには、日々の生活がある。どんな人も一日一日を過ごしている。時空の中で生きている。生きていることはいいなと思えるような一瞬がだれにもある。そんな感覚を醸成するにはやはり普通のリズムとハーモニイがどうしても必要なのだと思う。
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