音楽

空気の波

音楽は空気伝搬の波を受取ることだ。

いい音楽は、いい楽器がいるとともに、いい聞き手がいるのではないか。

そして、いい空気がいい音楽を伝わらせるのではないか。

音楽は空気の波だ。耳でけではなく目でも楽しむことができる。でも、目をつむって聴く音楽もいい。

それも四季のある自然の中で、そのときどきの音を聞きたいようなきがする。

この進んだ世の中で、まだ海外との中継では間がある。あれはほんとはもうないのではないか。特派員がそういイメージをもっているから、そうなっているのではないか・・・。

音楽は空気の波なんだから、受けての波長によって増幅されたりする。それは私たちのこころの波によって変化するのだ。

だから同じものを聴いてもその時々でちがうものになる。そして、いいところのイメージがいい曲にはついて回り、さらに増幅されるのではないか。

作曲者はそんなメカニズムをしっかりと心得ていたのではないだろうか。そんなことを想った。

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波の効果

音波。振動を感じる機能が体じゅうにあるのが人間だ。

だから音楽が発達したのだ。それは、たしかに私たちの身体に伝わってくる。そんな感じがよくわかる。周波数が変わることで、人体に影響を与える。破壊することもできる。

音楽は、だから私たちの心を揺さぶることなんて簡単なはずだ。そして私たちも音楽の持っている振動を取り込むことができるのだ。

音楽は、古来あったはずだ。進化する過程で、単細胞のアミーバのころからその波動を感じていたにちがいない。

波を見ているとどんなものでも、わくわくする。それが音楽の原点かもしれないと私は考えている。

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いい歌が多い。

若さだけではなく、そこに若くても何か逆に渋さを感じさせるアーティストが増えているのではないか。

感性を磨くという名のもとに、はみ出す人気者も多い。

自己コントロールとかいうのは、天才たちには関係ないのだろうか。心を吐露して表現するには、何でも必要なのだろうか。

心に残る歌は、個人差がある。あんなへたくそな歌手と思っていたら、何かこうジーンを胸を打つシンガーに育っている・・・。

いい歌はいい・・・。

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もう秋になってしまった

まだ暑そうだ。でも、本当の夏の暑さは消えてしまったようだ。

今はもう秋・・・。そんな歌があった。秋は収穫の季節であり、冬に備えるときでもある。

この気持ちをなんとか伝えたい・・・。もう秋になってしまったのだから、仕方がない。この夏にやりたかったことがいっぱいあった。でも、もう秋になってしまったのだから、まあいいか。そんな気持ちもある。でもまた来年、夏はやってくる。この夏やり過ごしたことを、またできるだろうか。

面倒なことは、すっかり忘れているだろう。

もう秋になってしまったのだから、もうそれで今年の夏に想ったことはおしまいにしよう。

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気力をもらう

忘れることだ。そんな言葉が私に聞こえた。

そうだ。

何を私はしているのか。暖簾に腕押しばっかりだ。それでもいいし、それしか今私にはできない。だれが何を言おうともそれしかできない。やれるかどうかわからないし、それをやるしかない。そしてそれをやることが私の挑戦なのだ。

いつ諦めるか。そんなことを想うこともある。でもあきらめない。なぜならば今が一番若いし、今しかできない。どんなことも成果を得ようと思ったら今という時しかない。今何をするか。それが問われているだけなのだ。酒を飲んで文句をいうか、それともそんなことを忘れて何か科学のことをほんの一瞬でも考える力があるのか。

そうだ。

それしかない。気力だ。気合いだ。でもだめかもしれない。100のうち99はだめだろう。でも1はOKかもしれない。それならやればいい。やってみれば、そんな不安も期待も忘れて純粋に何かを考えることができる。

ひとはそんな才能をもっている。自分を忘れて自分の力を出し切ることができそうだ。少し気力がでてきたようだ。

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おとをたのしむこと

音源。騒音。振動。地震。雷。電車。バス。トラック。車。げたの音、靴音。コツコツ。

コップ。叩くとなる。水の入ったコップ。音色が違う。鉄の音。銅の音。真鍮の音。ガラスの音。

水の音。空気の音。風。流れ。

ひとの呼吸音。心臓鼓動。おなら。おなかの音。拝むときの柏手の音。ぶつかる音は相撲のもの。竹刀のかかり。剣の音。

いつも周りには音が満ちあふれている。太鼓の音もいい。基本は空気を振動させることにある。だから、どうやって空気をこまやかに動かすかが大事なのだ。流れを創る。振るえる。渡したちの声もそうだ。声帯を震わせる。千差万別の音質が声となる。

おとを楽しむことが大変に難しくなっている。でも波音なんかはとてもいい。砂浜海岸の波は白い波がしらがあって目にもいい感じを与える。

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むかしからの音

どこか電車のなかで、轟音の中で、頭の中に刺激してくるものがある。音楽というのは、ある種のマッサージではないのか。音波を空気や私たちの体の骨・皮・筋肉・血管・内蔵などをとおして脳に届ける。だまっていると、たしかに血流の音もわかる。心臓の鼓動だ。音源はいっぱいある。呼吸音も同じだ。むかしからの音もそのなかにある。クラシックといわれる新しい音楽は、そういう私たちの身体の構造を踏まえて創られたのではないだろうか。なぜならば、脳学者が言っていることが、8割かた当たっているのだ。クラシックのある種のものは、脳みそに直接訴える力をもっている。創り手がそういうことを自分の感性として磨き、まとめたものなら、たしかに意図が伝わる。今、昔からの音について想うと、そう納得できる。

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クラシック音楽

音楽。これは学科の呼び方である。普通そうは言わない。そしてクラシック音楽とならいってもよさそうではないか。音楽は若者の文化の象徴になっている。だから慎重になる。同年代でも愛好者は多い。だから話に出せないのが音楽だ。

まったくだめな音痴だ。でも一人で何気なく聴くのはとても好きだ。文化的な発想で音楽を聴くのはできなかった。あるとき、クラシック音楽、とくにモーツアルトがいいと聞いた。何に良いのかというと、頭の働き、それも自律的な動きにいいのだという。努力しようとしても面倒でできないことが多いし、負担になって逆に悪い方向になるのでそういう類のことはあまりしない。何かして勝手にいい方向に導いてくれるならそれはすごいことだ。でもあるわけないと憎たらしい口利きをしてやってみた。

それがすごい。何もしない。何も感じない。モーツアルトの音楽を流しているだけで、頭の中が整理されてしまう。感じないでいるのだが、記憶力とか深層心理という分野での活性化が進展しているのだ。きっとそうだ。成果は、大きかった。いまでも時々聴いている。なぜなら、音楽というものはそれしか、パソコンに入れていないからだ。でもとても大事なものだ。

ある著名な脳科学者の本に書いてあったのだ・・・。嘘だと思ったのに・・・。ほんとだったのだ。見つけた人が勝ちかもしれない。でもその人に責任をなすりつけようとしてもそれはだめだ。自分の想いがなければ効果もないのは確かなのだから・・・。

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うさぎおいしかのやま

なんの意味かもわからずに歌っていた。うさぎおいし・・・。かのやま・・・。まさか、兎おいしい、蚊の山・・・、ではないものの・・・。本当に意味不明で単に口をうごかしていたということでもない・・・。何か感じるものがある。それはメロディではないか。有名な誰もが口ずさむような歌はほとんど意味を理解していなかったようだ。頓着していなかった。そういうものだとは思っていなかった。

小学校唱歌というのが各学年で4曲ずつ、6年間で24曲を歌えるようにする方針が出されたという。もし私がいまその小学生だったら、どういう風に歌うのだろう。たぶん、どのぐらいの数を覚えるとかいうのは、興味がないと思う。

どうしてそんなに決まりばかりつくるのだろうか。ヒトとして当たり前のことがほとんどこうしなければならないと決まったいる。そこに自由はない。そんなことを思ってみても、やはり混沌とした社会では何か守らなければならない。

もっと、ひとつの生き物としての勘が大切だと今改めて思う。父さんがいなくても一生懸命勉強します・・・、なんて子供がいう時代はなんとかなくしたい。でもそれは事故としてみるととても切ない。どうして・・・、自分の身内や知り合いや・・・、どうして・・・、どうして俺が・・・。そんな思いをしている人は大勢いるのではないか。だから、いろいろな決まりができても、もうそういう事故や事件に遭遇してしまった人はどうしようもないのだ。切ない気持になる。水俣病、アスベスト、サリン、酔っ払い運転事故、電車事故、災害、いろんなことがある。くやしいのはどうしてという問いかけしかできないことだ。なぜ。なぜおれがそうならなければいけないのか。答えはない・・・。

それは、意味をしらないでうたっていた唱歌と同じようなものかもしれない。うさぎおいしかのやま・・・。やまのあなたのそらとおく・・・、というのも落語にあった。それも意味をしらないで何か面白がっていた。もっともっとどうしてとかいうことを、そんなところでも発していかなければいけないのではないか。あまり関係ないかもしれないが、意味を理解すること自体が面倒なことだ。

とんぼが舌をだして笑ってら・・・、というような歌もあった。歌詞を文字でみるまで、とんぼに舌があるのかという疑問は感じなかった。それでいいのだ。リズムとメロディが歌の命なのだ。でもいい歌詞ってある・・・。最近よく、うさぎおいしかのやまと呟いている。歌っていいものだ。

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たいせつなもの

わたしたちの感覚が実はすごい力をもっていて、日常的にその力を発揮している。新たなメロディとかリズムとか流れるような感覚を楽しんでいる。どこからくるのだろうか。その楽しさを感じるさせるものを私たちは機能的に持っている。

たいせつなものを受け取るように、音楽を聴くときはそんな感覚ではないだろうか。でも、リラックスした状況であり、やすらぎというようなものがあるのはどうしてだろうか。脳に刺激を与えるというと何か現実に入り込みすぎて、文化芸術というものと離れてしまいそうだが、実は同じなのだ。感覚を大事にしてきたのは古来、それがヒトとしての成長を促すものだからではないか。こころの状態を音にしてみたら、それが楽しいものであり、成長に貢献するということがわかったのだろう。

私はずっと成長していないような気がするのは、音楽を聴く時間とか、音楽に対する考え方が遅れていたのだろうか。子どもの成長に音楽は大きな役割を果たすようだ。たぶん体力的な点でも音楽は改善に貢献するのではないか。

たいせつなものになる。気に入った音楽は心と体に入り込んでくる。まるで自分がその分身になったような、自分がその音楽と運命的な出会いをしたような、またはその音楽が己のためにあるような錯覚を抱くこともあるのではないか。作り手はどうなのか。自分のものでもそれはヒトに生まれて育まれた感覚がそういう音楽を作らせているので、それはある種探し物を見つけるようなものではないのか。

でも大切なものをどんな形であれ、見つけられればそれは自分のものとなる。音楽とはたぶん、一生いろんなことについて回るものだと思う。

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リズムとハーモニイ

私たちの社会にはいつも音楽がある。喜怒哀楽という人の心の動きをうまくあらわしている。感情をうまく表現することは難しいものだが、すぐに爆発という形を取らずに、音楽というものにその感情を移転することを先祖は考えたようだ。

そういう時はこうしたらいい。そんなことを地域祭りに残したらい、個々の生活の区切りをつけるために冠婚葬祭という仕組みを残している。行く人来る人という具合にこの世の中の進展を眺めている。

最近はそういう慣習をあまり気にしないようになっている。個々の生活だけではなく、地域社会の祭りにしても、風化しつつあるのではないか。核家族化という言葉叫ばれて久しいが、この弊害がいま現れているようだ。動いているときは何も見えなかった。家族を養うためという大義名分を軽んじるわけではないが、それしかなかった。懸命になってやることでしかできない。家族の生活のためのお金はやはり汗水流して稼いでいくのがいいと私は今でもその思いは変わらない。たとえ100円のお金でも、額に汗して働いていただいたものは社会に還元するときにもうまく回っていくお金だと私は思う。

リズムとハーモニイがある。リズムで生きることに勢いを持たせていくことができそうだ。でもこの私たちの社会が人間の社会として成立していくには、そこにハーモニイが必要だ。今私たちはこのハーモニイを学んでいる。一朝一夕にはできないものかもしれない。

生活のハーモニイとは具体的にどんなことかというと、それは衣食住という日々の生活のなかで、必要なものを無駄にせず、大切にすることである。リサイクル社会として、この私たちの空間でほかに負の影響を与えないようにしていくことである。それが自然なのか、それとも使い捨て社会が自然なのかは、ヒトの存在が自然なのかどうか、一時的にこの地球上に出現した生物だけなのかもしれないし、それはわからない。

ただ、その時にヒトという生物が何を考えて存在していたのかという基本的なコンセプトが見つかるものがあるのではないか。でもヒトが神によって創られてものだとか、存在させられたものだというのでは、何か私たちのDNAに製造年月日と賞味期限が記されていなければならないだろう。そうではなく自然の中で必然的に出現してきたのであれば、これからこの社会をうまく自律的に発展させていく必要があろう。それが何かはわからないが試されているのではないか。滅亡の道をもともと歩いているというひともいる。いや永遠に生存するというひともいるだろう。でも乗っている船である地球が病気になってしまうとか耐久年数が終わるとか太陽系が百億年の命を落とすまでの半分のところにあるともいう。

私たち人類のリズムとハーモニイはこの段階でもうまく機能していけるのではないかと私は最近思う。それはなぜか。どんな時でも何か可能性がやはりある。人としていきていること自体がすごいこなのだと思う。生まれてきて人の社会のリズムを受けてハーモニイの中に生きている。それは、スーパーマンに生まれたとしても同じではないか。ほんの少し大気圏の上までいける能力をもって、他の人の百倍の速さで移動できたとしても、空を自由に飛べたとしても、この社会の不正を終わらせるための永遠の戦いに勝ち続けたとしても、悪役の登場がなくなればそこで役割は終わるのだ。

その後、どうするのだろうか。永遠の社会悪を保存し継続することでしか伝統を維持できない。とすると正義も悪もない。単なる伝統行事にしか見えない。そんなことであっていいのだろうか。どんな役割を演じるのかを社会は個々の人に要求しているのだろうか。どうも私のリズムとハーモニイも少し変調しているかもしれない。

現実に戻ろう。そこには、日々の生活がある。どんな人も一日一日を過ごしている。時空の中で生きている。生きていることはいいなと思えるような一瞬がだれにもある。そんな感覚を醸成するにはやはり普通のリズムとハーモニイがどうしても必要なのだと思う。

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苦手なもの

決して嫌いではない。ただ苦手なだけである。

音楽がそれである。楽譜が読めない。楽器がうまく扱えない。そんな劣等感がどうしてもあったようだ。ブラスバンドの格好よさ、あんなに楽器が簡単に操れる人たちは天才だと信じていた。

NHK管弦楽団の団員が中学で演奏してくれたことがある。もうその時はみんなの目があこがれの目になっていたのを思い出す。それだけ、そういう才能の全くない己を情けないとおもいつつ、音楽という学科はすきではなかった。でも苦手ということだと思い直した。音楽そのものはいいものだ。小さい頃にきいた演歌、流行歌は身にしみついている。そして今の音楽も慣れてきたせいか悪いとは思わない。

でも苦手意識は治らない。それでピアノを弾きたいとか・・・そういうのも躊躇する。ラジオ体操の歌、新しい朝、希望の朝・・・。のど自慢の歌・・・。こういうのはいわゆる生活の中に入り込んでいるので、なぜとかいう疑問符はでてこない。

一度、パソコンがまだマイコンといわれていた頃、それで作曲をしようとしたことがある。時代が変われば、表現方法としての音楽はいろいろな効果を私たちに与えてくれるものと期待できる。とくに、心に働きかける波動としてみると何かスポーツの兄弟のようなものかもしれないと思う。筋肉の運動として脳に作用する。感覚は身体の筋肉の一部でもあり、そこから音楽を感じている。波動なのだから、音楽というものを違う視点にみればそこに展望も変わったものになる。

この世の中は波が支配している。音波であり、電磁波であり、何かが振るえることで情報が伝わる。感情も波動で伝わる。目に見えるものも耳に聞こえる者も波動である。それを受取るための機能が身体に備わっていて、理解し受け止める心が脳の中に埋め込まれている。

たぶん、そんなことを苦手と思ったときに考えていれば、少しは変わったのかもしれない。楽しみ方は苦手意識とは関係ないようだ。

苦手だと感じるほど、興味を抱いていたのだ。いいものは良いと素直に思うようにいつかはなる。自然な流れに任せるのがいい。

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モーツアルト

どうして昔の音楽家は髪が長いのか。長い間疑問であった。音楽室の壁にかかっていた肖像画の話である。当時の私の感想は恥ずかしくないのだろうか・・・というものだった。そんなことあるはずはないと今はわかる。儀式用のかつらだったのだ。

ここ5年間ぐらい週末は図書館へいっていた。いわゆる勉強をしていたのだが、毎年結果がでるわけではなく、やはり年齢のせいでもう無駄な努力なのかもしれない。そんなことを思いながら、できる範囲内での努力をしていた。でもなかなか乗れない気分の時がほとんだだった。考えてみれば当たり前のことだ。平日は仕事をして朝から晩までである。毎日の通勤時間を利用するというのは、よく聞くが現実には、適当な通勤時間の長さがある。10分ぐらいでは何にもできないだろう。2時間もあったら退屈するだろうし、続かないだろう。

とにかく集中力がない。集中できない。すべて疲れているからである。

そんなときは力を蓄えてから、やればいい。そう考えると、何かすっきりした。脳学者という人の本にモーツアルトの話があった。彼の選択したCDを買った。ときどき聴くようになった。あまりにも脳の波長とあうような何かいままでどうして気付かなかったのだろう・・・というような気持ちだった。それからずっと思いだしたときにはほとんど流れている感じだ。

人の行動にはストレスを感じることばかりが多いようだ。ひとつのことをすると、そこにそうではないだろうということが思い浮かび、ストレスになる。ではどうしたらいいのだろうか。ストレスは必要なもの、必需品のようなもの。そうなのだからそのように考えればいい。決して悪いものではない。

人前では上がってしまい何もできない。そんな人が結構多い。そして、その対策を考えるとさらに厳しくなる。実際に効果がでない。さらにあがってしまった。そんなことが多い。ではどうしたらいいのだろうか。減らすのではなく、最高レベルにまで上がりきってしまったらどうだろうか。あがりきるためにはどうしたらいいのか。普通のとおりにしていれば、まちがいなくあがってしまうのだから、気は楽ではないか。・・・・・。

こんなことを考えながら、モーツアルトを聴いているのが一番いい。でも、その意識はない。自然な形で流れているだけの感じがいい。さあ仕事にかかろう。

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